源氏物語絵巻 院政期文化
源氏物語絵巻 竹河 (12世紀初/徳川美術館蔵) ©Public Domain

院政期文化


院政期文化
平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。

  • 中心地:平安京中心、一方で文化の地方普及
  • 担い手:上皇・貴族に加え武士・庶民の登場
  • 歴史物語・軍記物語・絵巻物
  • 今様・田楽・猿楽の流行(貴族や庶民に流行)
  • 浄土教思想の広まり(各地に阿弥陀堂建築・浄土教美術)

院政期文化

院政期文化の主な作品


蓮華王院千手観音立像
臼杵磨崖仏
浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像

三仏寺奥院(投入堂) 鳥取県岬町
中尊寺金色堂内陣 岩手県平泉町
富貴寺大堂 大分県豊後高田市
白水(願成寺)阿弥陀堂 福島県いわき市



源氏物語絵巻
鳥獣戯画 伝鳥羽僧正覚猷
信貴山縁起絵巻
伴大納言絵巻
年中行事絵巻


厳島神社平家納経
扇面古写経
歌謡 梁塵秘抄 後白河法皇
歴史物語・
説話文学
栄花物語 赤染衛門?
大鏡 作者不明
今鏡 藤原為経
今昔物語集 作者不明
軍記物語 将門記 作者不明
陸奥話記 作者不明

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

院政期の文化

貴族文化はこの時期に入ると、新たに台頭してきた武士や庶民の活動とともに、その背後にある地方文化を取り入れるようになり、新鮮で豊かなものを生み出した。

11世紀には、藤原明衡ふじわらあきひらが『新猿楽記しんさるがくき』を著して、さまざまな階層の人々の生態を記し、後三条天皇や白河上皇の近臣であった大江匡房おおえのまさふさは『傀儡子記くぐつしき』や『永長田楽記えいちょうでんがくき』などを著して、芸能に関わる人々の動きに注目している。田楽などの庶民的芸能は貴族の間に大いに流行しており、奈良時代に中国から伝来した散楽さんがくに由来する猿楽さるがくも親しまれた。

大江匡房は年中行事や公事の実際を示した『江家次第ごうけしだい』なども著した文人であったが、さらに説話を『江談抄こうだんしょう』に語っている。その同じ時期に編まれたのがインド・中国・日本の1000余りの説話を集めた『今昔物語集』であり、武士や庶民の生活を見事に描き出している。残念ながら『今昔物語集』の作者は不明であるが、同じく作者不明の、将門の乱を描いた『将門記しょうもんき』や、全九年合戦を描いた『陸奥話記むつわき』などの初期の軍記物語が書かれたことも特筆される。これらはこの時代の文学が地方の動きや武士・庶民の姿に強い関心をもっていたことをよく示すものである。

これらの作品は新たな民間の動きに触発され、それを貴族が表現したものであったが、とくに民間で流行した歌謡を集めたのが後白河法皇であり、流行歌謡である今様いまようを遊女などから学んでみずから『梁塵秘抄りょうじんひしょう』を編み、その事情を『梁塵秘抄口伝集』に記している。この時代の貴族と庶民の文化との深い関わりがよくうかがえる。今様のほかに、古代の歌謡から発達した催馬楽さいばらや和漢の名句を吟ずる朗詠ろうえいも流行していた。法華経を読む読経や寺院音楽の声明しょうみょうも盛んとなった。

武士と庶民の動きは絵画によっても表現されている。とくに、大和絵の手法を用いて絵と詞書ことばがきをおりまぜながら時間の進行を表現する絵巻物が多くつくられるようになった。京都の火事と庶民の動きをリアルで迫力ある筆致で描写した『伴大納言絵巻』、庶民の信仰を求める姿を自然描写を背景に浮かびあがらせた『信貴山縁起絵巻しぎさんえんぎえまき』、合戦の舞台となった京都の復興や朝廷の行事をテーマにして京都の庶民の動きも活写している『年中行事絵巻』をはじめ、多くの傑作がこの時期に生み出された。中には『鳥獣戯画ちょうじゅうぎが』のように、動物を擬人化して人々の動きを生き生きと描いた異色のものもみられる。

従来の物語を絵巻に表現したものも多くつくられた。優美な『源氏物語絵巻』はその代表的な作品であるが、そうした貴族的な作品にも武士や庶民の影響がしだいに現れていった。それは、法華経の信仰とともに広く行われた写経にみられる。上皇や貴族による高野山・熊野三山・観音霊場などの霊場参詣が盛んになって、その際に写経が納められたが、中でも上皇による熊野詣では毎年のように行われた。写経の作品では、四天王寺の『扇面古写経せんめんこしゃきょう』の下絵には、京都や地方の社会、庶民の生活がみごとに描かれており、安芸の厳島神社あきのいつくしまじんじゃの豪華な『平家納経』は、平氏がこの神社をあつく信仰したことから、清盛が一門に語らって納めたものであり、平氏の栄華と同時にその貴族性を物語っている。

他方で、この時代には地方の豪族が京都の文化を積極的に取り入れており、各地に宗教文化が広がった。奥州藤原氏は藤原清衡ふじわらのきよひらの時に平泉に中尊寺を建て、黄金をふんだんに使った金色堂などの建物を造営し、その子藤原基衡ふじわらのもとひらも平泉に毛越寺もうつじという大寺院を建立した。また、陸奥の磐城いわきの白水阿弥陀堂や、九州豊後ぶんごには富貴寺大堂ふきじおおどう臼杵うすきの石仏など、地方豪族のつくった阿弥陀堂や浄土教美術の秀作が各地に残されている。

こうした地王の文化と京都の橋渡しをしたのが、寺院の所属から離れたひじりなどと呼ばれた民間の布教者であった。大寺院が多くの僧を抱えて、政治との結びつきを強めるなかで、彼らは山林に籠り、諸国をめぐって修行し、仏教信仰を広めていった。その姿は『信貴山縁起絵巻』に描かれている。

不輸・不入の権を持つ荘園が増え、荘園と公領が分立するなかで、聖たちは国司にかわって公共的な事業をも担うようになった。
人々に喜捨きしゃを仰ぐ勧進を行い、衰退した寺院や壊れた橋・道・港湾などの修築をした勧進上人かんじんじょうにんが聖の中から多く出現するようになった。

このように院政期における社会の大きな転換が文化の上でもよく知られるが、さらにこれまでの物語文学にかわって、『栄花物語』や『大鏡おおかがみ』『今鏡いまかがみ』などの国文体の優れた歴史物語が著されたのも、転換期に立って過去の歴史を振り返ろうとする、この時期の貴族の思想を物語っている。

院政と平氏の台頭 中世社会の成立 – 世界の歴史まっぷ

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