護国寺
護国寺 本堂(重要文化財)画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

護国寺


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護国寺 ごこくじ

東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院と号する。1681(天和元)年、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とした。1717(享保2)年神田にあった護持院が焼けたのち、護持院と称したが、明治になって護国寺という名に戻った。

護国寺

東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院と号する。天和1(1681)年、徳川綱吉の生母桂昌院の願によって創立したもの。亮賢の開基。享保2(1717)年神田にあった護持院が焼けたのち、護持院と称したが、明治になって護国寺という名に戻った。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

歴史

当寺の創建は天和元年2月(1681)、5代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌2年、堂宇は完成した。
 明治16年、大正15年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。
 震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。

観音堂(本堂)

現在の観音堂(本堂)は、1697(元禄10)年正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。

参考 大本山 護国寺

幕藩体制の展開

幕政の安定

元禄時代

綱吉は、儒教のほかに仏教・神道・陰陽道を支持して、寺社の造営も大いに行った。壮大な護国寺護持院を建立したほか、東大寺大仏殿の再建や法隆寺諸堂の修復、寛永寺本坊の再建を行った。伊勢神宮熱田社などの神社造営や湯島聖堂の建立も行った。これらの費用は、諸大名の手伝普請てつだいふしんや全国勧化かんげに依存するものもあったが、幕府の自普請も多く、1685(貞享2)年の日光山堂社修復に金1万4327両、翌年の熱田社には金9114両を江戸の金蔵から支出している。そのほか、幕府は1688(元禄元)〜96(元禄9)年の間に、延べ34寺社の普請に約22万9269両の支出を行っている。綱吉政権期の寺社造営、修復費は、およそ70万両との計符もある。

江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。

参考

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