藤原百川
藤原百川(菊池容斎画) ©Public Domain

藤原百川


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藤原百川ふじわらのももかわ (天平4(732)〜宝亀10(779))
奈良時代の公卿。藤原式家の祖である藤原宇合ふじわらのうまかいの8男。母は久米連奈保麻呂の娘・久米若売くめのわかめ。称徳天皇の没後、藤原永手らと白壁王(光仁天皇)を擁立。宝亀2年参議、5年従三位となる。
山部親王(桓武天皇)の立太子にも尽力した。宝亀10年7月9日死去。48歳。淳和天皇の外祖父として正一位、太政大臣を追贈された。初名は雄田麻呂。

藤原百川

平安朝廷の形成 律令国家の形成 – 世界の歴史まっぷ

藤原百川
天皇家と藤原氏の関係系図(天智天皇〜文徳天皇)©世界の歴史まっぷ

経歴

称徳天皇代にあって、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)以後後退していた藤原氏をその才覚により支え、権力の再興を果たす。
神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件においても、道鏡への皇位継承阻止派として藤原永手らともに雄田麻呂の暗躍があったといわれる。そのころの雄田麻呂は、表向きは内豎大輔として称徳天皇・道鏡政権の中枢に参加する一方で、神託事件によって配流された和気清麻呂のために秘かに仕送りを続けるなど、激動する政界において巧みに振舞ってきた。

神護景雲4年(770年)称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、従兄弟の左大臣・藤原永手や兄の参議・藤原良継とともに、反対する右大臣・吉備真備を出し抜くなど、白壁王(のち光仁天皇)擁立に労を取ったとされる。ただし、神託事件から光仁擁立へ至る時期に雄田麻呂が暗躍されたとする記事は、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」以降に見られるが、『続日本紀』には見られない。そのため、この時期に雄田麻呂が暗躍したとする所説は、後述する桓武立太子の事情が誤って語られたものであるとした、河内祥輔の説が現在では広く支持されている。

白壁王立太子後右大弁に任官、光仁天皇即位に伴い正四位下に叙せられ、翌宝亀2年(771年)には大宰帥・参議に任ぜられる等、要務を勤めることとなった。この頃「百川」と改名。光仁天皇の百川に対する信頼は非常に篤く、その腹心として事を委ねられ、内外の政務に関する重要な事項について関知しないものはなかったという。

宝亀3年(772年)井上内親王(称徳天皇の妹)が天皇に対する呪詛疑惑を理由として皇后を廃され、光仁天皇と井上内親王との間の子である他戸親王も連座して廃太子となり、女系としての天武系も途絶することとなる。
翌宝亀4年(773年)、建議により皇太子に山部親王(後の桓武天皇)を立てる。これら一連の事件は山部親王の才能を見込んだ百川の暗躍によるものとされている。母親が百済渡来人系高野新笠である山部親王にとっては、望外であったと思われ、親王の百川に対する信任はすこぶる篤かった。

宝亀10年(779年)正月に従三位に叙せられるが、山部親王の即位を見ることなく同年7月9日卒去。享年48。最終官位は従三位式部卿兼中衛大将。即日従二位の位階を贈られた。桓武朝の延暦2年(783年)贈右大臣。弘仁14年(823年)淳和天皇(母は百川の子・旅子)即位に伴い、天皇の外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。

系譜

  • 父:藤原宇合
  • 母:久米若女(久米奈保麻呂の娘)
  • 妻:藤原諸姉(藤原良継の娘)
    • 長女:藤原旅子(759-788) – 桓武天皇夫人、贈皇太后、淳和天皇母
    • 女子:藤原帯子(?-794) – 安殿親王(のちの平城天皇)妃、贈皇后
  • 妻:伊勢大津の娘
    • 長男:藤原緒嗣(774-843)
    • 三男:藤原緒業(または継業)(779-842)

参考 Wikipedia

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