種子島時尭
第14代島主種子島時尭公像 (種子島開発総合センター付近)©Public Domain

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種子島時尭 たねがしまときたか( A.D.1528〜A.D.1579)

日本で初めて鉄砲を入手。種子島第14代島主。1542年(天文11)、父と対立し島津貴久の調停で和睦。島津氏に仕え、大隅の禰寝氏と抗争し屋久島に築城しとといわれる。1543年、倭寇が種子島に漂着し、ポルトガル人のもっていた鉄砲(火縄銃)を求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた。伝説によると、鋳物師の八板金兵衛はポルトガル人船長に娘の若狭を人身御供に献じ、その製法を教わったというが、こののち鉄砲はたちまち日本国中に広まった。

種子島時尭

日本で初めて鉄砲を入手

種子島の島主。1542年(天文11)、父と対立し島津貴久の調停で和睦。島津氏に仕え、大隅の禰寝氏ねじめしと抗争し屋久島に築城している。1543年、倭寇が漂着し鉄砲を伝える。時尭は家臣篠川小四郎しのがわこしろうに火薬を、鍛冶の八板金兵衛やいたきんべえに製造法を学ばせ鉄砲を製作した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

幕藩体制の確立

織豊政権

南蛮貿易とキリスト教

1543(天文12)年にポルトガル人を乗せた中国船が九州南方の種子島に漂着した(1542(天文11)年とする説もある)。この船は、密貿易商人で倭寇の頭目でもあった中国人王直おうちょく(?〜1559)のもち船で、その船がこの海域を航行していたのは、九州の五島・平戸が当時王直の活動拠点となっていたためである。ポルトガル人はこのような密貿易商人・倭寇の船に同乗し、漂着したのであるが、これがヨーロッパ人が日本に来た最初となった。このとき、島主の種子島時尭たねがしまときたか(1528-79)はポルトガル人のもっていた鉄砲(火縄銃)を求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた。これを契機に、ポルトガル人は毎年のように九州の諸港に来航し、日本との貿易を行った。またスペイン人も、おくれて184(天正12)年、肥前の平戸に来航し、日本との貿易を開始した。

鉄砲の伝来
鉄砲
種子島銃(ポルトガル初伝銃)(種子島開発総合センター鉄砲館蔵/有形文化財)画像出典:種子島西之表市サイト

ヨーロッパ側の史料によると、1542年に3人のポルトガル人がジャンクに乗って種子島に漂着したというが、日本側の史料である僧文之玄昌ぶんしげんしょう(1555〜1620)の『鉄砲記』には、天文12年8月25日(1543年10月5日)に2人のポルトガル人の長に率いられ100余人の乗り組んだ船が流れ着いたとあることからこれまではどちらかといえば1543年説が有力視されてきた。ところが、その後に相ついでみつかった『島津貴久記』や『歴代鎖西志』がいずれも鉄砲の伝来を1542年としていることから最近は1542年説が再び注目されてきている。このとき、種子島時尭たねがしまときたかが求めた火縄銃は口径16ミリ、銃身718ミリで、これを種子島銃と呼ぶようになった。伝説によると、鋳物師いもし八板金兵衛やいたきんべえはポルトガル人船長に娘の若狭わかさ人身御供ひとみごくうに献じ、ついにその製法を教わったというが、こののち鉄砲はたちまち日本国中に広まった。

参考

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