徳川綱吉 元禄時代 服忌令
徳川綱吉像(土佐光起画/徳川美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

服忌令


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服忌令 ぶっきれい

喪に服す服喪と、穢けがれを忌む忌引のことで、近親者が死んだときなどに穢れが生じたとして、服喪日数や穢れがなくなるまで自宅謹慎している忌引の日数を定めた。1684(貞享元)年から1693(元禄6)年まで5回追加補充され、武家、百姓や職人・町人にいたるまで、死や血を穢れたものとして排除する考え方を広く社会に浸透させていった。

服忌令

幕藩体制の展開

幕政の安定

元禄時代

生類憐み令と同時期に服忌令ぶっきれいも出された。服忌令とは喪に服す服喪と、けがれを忌む忌引きびきのことで、近親者が死んだときなどに穢れが生じたとして、服喪日数や穢れがなくなるまで自宅謹慎している忌引の日数を定めた。例えば、父母が死んだ場合には忌が50日、服が13カ月と規定された。1684(貞享元)年に発令されたあと、93(元禄6)年まで5回も追加補充された。養父母の場合は何日か、などと問い合わせがなされ、事細かに追加がなされたためであるが、綱吉政権の服忌令制度化に向けた強い意欲がうかがえる。

服忌の歴史

室町時代の公卿三条西実隆は、歌人としても学者としても有名である。その日記『実隆公記』の1505(永正2)年の記事に、同家に永年仕えてきた下女が病気で、もはや助かる見込みがないとみるや、寒風甚だしい夜半に鴨河原に下女を捨てたと記されている。死んだときに家屋敷が穢れるのを恐れたためである。このような服忌の考え方は、「大宝令」の制定以来、公家や神社に存在してきたもので、武士世界のものではなかった。

服忌令ぶっきれいは、武家はもちろん百姓や職人・町人にいたるまで知らされ、死や血を穢れたものとして排除する考え方を広く社会に浸透させていった。綱吉政権は生類憐み令服忌令の両者を同時に徹底させることで、戦国時代以来の人を殺すことが価値であり、主人の死後、追腹おいばらを切ることが美徳とされた武士の論理や、よその飼い犬を殺すなどの無頼行為のかぶき者の存在ともども、最終的に否定した。

この生類憐み令や服忌令の影響は、殺生や死を遠ざけ、忌み嫌う風潮をつくり出した。その結果、死んだ牛馬を片づける皮多かわた長吏ちょうりや、町や堀などの清掃に従事し、清めにたずさわる非人ひにんの仕事が、以前にも増して社会的に必要かつ重要な役割として位置づけられることになった。このように社会的に不可欠な役割を果たしながら、その仕事に穢れ感がつきまとうとの考え方も広まり、皮多・長吏や非人の人々を忌み遠ざけるという誤った差別意識も強化されてしまった。

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