明兆


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明兆 みんちょう( A.D.1352〜A.D.1431)

室町時代の画僧。中国の絵画にみられる、強固な筆法と濃厚な着色を取り入れた作風で、室町時代絵画の基礎を築く。その作風は後代の絵師に影響を与えた。『五百羅漢図』など。明兆の僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主でんすという地位にとどまり、それゆえ「兆殿主」と俗称された。

明兆

一介の画僧として生きた室町絵画の開拓者

時代をリードする禅宗文化の担い手

鎌倉時代後期から室町時代にかけては、禅仏教が武士に受け入れられ、仏教美術にも変化がおとずれた。禅における心の働きを主題にした禅機図ぜんきずや、優れた肖像画でもある道釈人物画どうしゃくじんぶつがなどの新たな様式が誕生し、数多くの傑作が描かれた。明兆みんちょうも、その時代の画僧のひとりである。

1352年(正平7・文和1)、淡路国津名郡で生まれた明兆は、東福寺と南禅寺住職であった大道一以だいどういちいが淡路島に滞在中に、その弟子となった。その後、東福寺に移った明兆は、禅僧として高位を望まれたが、絵を描くことを好み、一介の画僧として生きる道を選んだという。多くの仏画や頂相ちんぞうを制作し、霊彩れいさいなどの弟子も育てた。明兆の僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主でんすという地位にとどまり、それゆえ「兆殿主」と俗称された。

優れた画僧の影響を受けた明兆は、躍動感溢れる力強い筆致で禅の精神世界を描いた。その作風は室町唐絵からえなど後世に大きな影響を与えている。

頂相:禅宗における師の肖像画の呼び名。頂相の「頂」は頭、「相」は相貌を意味する。これに師から「賛」(画に添え書きをする)をもらうことは、師の正式な弟子となりその法脈の中に加わることを意味した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで


五百羅漢図|根津美術館

武士社会の成長

室町文化

北山文化

この五山の禅寺を中心に禅僧たちによる中国文化の影響の強い文化が生まれ、武家文化の形成にも大きな影響を与えた。禅僧たちには中国からの渡来僧や中国で学んだ留学僧が多く、彼らは禅だけでなく禅の精神的境地を具体化した水墨画・建築様式などを広く伝えた。水畢画では、南北朝時代にも黙庵もくあん可翁かおうらがすでに活躍していたが、この時代になると、『五百羅漢図』などを描いた明兆みんちょう兆殿司ちょうでんす 1352〜1431)、妙心寺退蔵院たいそういんの『瓢鮎図ひょうねんず』で知られる如拙じょせつ(生没年不詳)、如拙の弟子で『寒山拾得図かんざんじっとくず』『水色巒光図すいしょくらんこうず』などを描いた周文しゅうぶん(生没年不詳)ら、多くの優れた画僧が登場した。また五山の禅僧たちの間で宋学の研究や漢詩文の創作も盛んになり、足利義満のころ絶海中津ぜっかいちゅうしん(1336〜1405)· 義堂周信ぎどうしゅうしん(1325〜88)らが出て、いわゆる五山文学の最盛期を迎えた。彼らは、中国文化に対する豊富な知識から都府の政治・外交顧問としても活躍し、中国・朝鮮に対する外交文書の起草なども行った。このほか、五山版ござんばんと呼ばれる禅の経典・漢詩文集などの出版事業も行うなど、中国文化の輸入に禅僧たちが果たした役割はきわめて大きかった。

参考 詳説日本史研究

室町文化一覧表

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