日英同盟 北清事変と日英同盟
1987年の日本 – 列強クラブの新入り(ジョルジュ・ビゴー画//明治30年)©世界の歴史まっぷ

日英同盟


日英同盟( A.D.1902〜1921)

極東におけるロシアの脅威に対抗するため、日本とイギリスが結成した同盟。日露戦争開始の背景、および第一次世界大戦への日本参戦の口実となった。第3次同盟まで結ばれたが、21年、ワシントン会議における四ヶ国条約の締結で解消された。

日英同盟

  • 1902年 極東におけるロシアの脅威に対抗するため、日本とイギリスが結成した同盟。日露戦争開始の背景、および第一次世界大戦への日本参戦の口実となった。第3次同盟まで結ばれたが、21年、ワシントン会議における四ヶ国条約の締結で解消された。
  • 1902年 極東におけるロシアの脅威に対抗するため、日本とイギリスが結んだ同盟。締結国の一方が戦争に入った場合、他方は中立を守り、もし第三国が敵側に加わった場合には参戦するといった軍事同盟的性格を持っていた。その後、1905・11年に2度更新されたが、07年の英露協商成立で同盟の存在意義は低下し、21年のワシントン会議での四ヶ国条約締結によって解消された。
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帝国主義とアジアの民族運動

2 世界分割と列強対立

同盟外交の展開と列強の二極分化

そのころ、イギリスは南アフリカ戦争に勝利したもののその強引なやり方に内外の強い非難を浴びたため、外交的孤立の不利益を悟るようになった。同盟政治の転換は極東からおきた。イギリスは、ジョゼフ=チェンバレン植民相がドイツとの同盟を模索したことがあり、義和団事件後のロシアの南下政策の脅威に対処するため、ドイツとの同盟交渉を望んだ。しかし、この交渉はドイツ側がロシアとの友好関係も容認したため不調に終わった。そこで、1902年、イギリスは、中国東北地方に大軍を駐留させて朝鮮半島へ圧力を行使しようとするロシアの動きを警戒する日本との間に日英同盟を結んだ。

イギリスにとっては、この同盟がロシアの太平洋岸進出を牽制し、ロシア・フランス・ドイツ3国による中国分割を阻止することが期待された。しかし、1904年、日露戦争が勃発すると、日英同盟・露仏同盟のためにイギリスとフランスも戦争に巻き込まれる可能性が生じた。すでにファショダ事件の処理でも明らかになっていたように、アフリカでの植民地問題に妥協が成り立っていた英仏両国は1904年英仏協商を結び、流動化する国際関係に備えた。両国の同盟の効果は 第1次モロッコ事件 (1905)で現れた。すなわち、英仏協商でフランスのモロッコ支配が保障されたことにドイツは反発し、1905年、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はみずからタンジールに上陸してスルタンと会見し、モロッコの主権を強調した。翌年、ドイツの要求を協議する国際会議がスペインのアルヘシラスで開催された。この会議でイギリス・ロシアばかりでなくイタリア・アメリカもフランスを支持したため、ドイツは孤立した。

3 アジア諸国の改革と民族運動

日露対立と列強

義和団事件に際して、中国東北地方(奉天ほうてん吉林きつりん・黒竜江の東三省とうさんしょう)に大軍を派遣したロシアは、事件後も撤退せず、朝鮮半島への圧力を強め、朝鮮半島での利権独占をはかる日本との対立を深めていった。日清戦争後の朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国と改め、国王高宗(李太王りたいおう、位1863〜1907)は大韓皇帝の称号を用い、外圧の中で国家の独立をまもろうと苦心していた。しかし、利権獲得による列強の圧迫は厳しく、とくに挑戦に大きな関心をもつ日本とロシアの干渉は強力で、韓国宮廷内には親日派と親露派による内部対立も生じて、政治的動揺が続いた。

ロシアの東三省占領は、日本とロシアの対立を深めるとともに、イギリスやアメリカにも強い警戒の念を抱かせた。当時イギリスは、南アフリカ戦争に苦戦し、アフガニスタン・イラン方面でもロシアと鋭く対峙する情勢下で、地理的に遠い極東方面でロシアと対峙するパートナーを必要と考えるにいたった。こうして極東における利害が一致した日本とイギリスは、1902年、日英同盟 同盟外交の展開と列強の二極分化)を締結した。イギリスにとってこれは、伝統の「光栄ある孤立」の放棄でもあった。日本では、伊藤博文のようにロシアとの協調路線を説く意見もあったが 、政府(桂太郎内閣)は、日英同盟と、同じくロシアを警戒するアメリカの援助を背景に、ロシアに対する戦争準備を進めていった。一方、フランスは露仏同盟によってロシアを支援し、バルカン方面でロシアと対立していたドイツも、ロシアの関心をヨーロッパからアジアにむけさせるため、ひそかにロシアの極東政策を支援し、日本とロシアとの衝突はさけられぬ勢いとなっていった。

列強が領土割譲による中国再分割をおこなわなかったのは、義和団に現れた中国民衆の強烈な抵抗のエネルギーをみて、分割を強行して第2、第3の義和団を招くより、中国の統治は清朝に任せて、もっぱら経済的利潤を吸いあげるほうが上策と判断したことによる。

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

第一次世界大戦の勃発

1914年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がオーストリアに併合されたボスニアの州都サライエヴォで暗殺された(サライェヴォ事件)。犯人はセルビア系の青年で反ハプスブルクの民族主義的組織に所属していた。セルビア政府は事件とは直接関与していなかったが、オーストリアはドイツの強力な支援をえて7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシア・フランスに宣戦布告した。

8月4日にはドイツ軍はベルギーの中立を侵して北フランスに進撃した。イギリスは国際法違反を理由にドイツに宣戦布告し、ほかの列強諸国も同盟・協商関係にしたがって参戦したので、同盟国側と協商国(連合国 )側との間で帝国主義戦争が始まった。8月24日には日本が日英同盟 日露対立と列強)を理由に参戦し、中国におけるドイツの租借地膠州こうしゅう湾および山東省青島チンタオを攻略し、11月には、反ロシアのオスマン帝国に英・仏が宣戦布告したので、戦線は東アジアや西アジアにも拡大した。三国同盟の一員であったイタリアは1915年にオーストリアに宣戦布告し、17年にはアメリカ合衆国も連合国 に加わった。バルカン諸国のなかではブルガリアが同盟国側に、ルーマニアとギリシアが連合国 に加わった。こうして、戦線はヨーロッパからアジア・アフリカ・大西洋にまで拡大し、列強の植民地や従属地域から兵士や軍需物資も動員されたので、この戦争は世界的規模の大戦争となった(第一次世界大戦)。

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近代国家の成立

日露戦争と国際関係

北清事変と日英同盟

ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府部内には、二つの意見が生じた。ーつは伊藤博文井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認めるかわりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換まんかんこうかんによって、日露間の利害を調整しようとするものであった。これに対し、桂太郎首相小村寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた(第1次桂内閣)。勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず「光栄ある孤立」を保ってきたイギリスではあったが当時バルカンや東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。

協約の内容は、(1)清国・韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国及びイギリスの清国における政治的·経済的特殊利益を互いに擁護し、(2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、(3)さらに二国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる、というものであった。

北清事変と日英同盟
1987年の日本 – 列強クラブの新入り(ジョルジュ・ビゴー画//明治30年)©世界の歴史まっぷ

日英の接近、日清戦争の勝利でいよいよ日本もイギリスの紹介で列強クラブの仲間入り。洋装に高下駄、目が細くて出っ歯の男の登場にメンバーはとまどっている。 参考:明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界

このように日英同盟協約は日本が欧米列強と結んだ初めての対等条約で、これは日本にとって欧米先進諸列強への仲間入りを意味するものであった。こうして日本は国際政局に登場し、列強相互の対立を利用しつつ、対外的な勢力拡張を企てることになった。

日露戦争

ロシアとの対立がしだいに深まるなかで、桂内閣(第1次桂内閣)はロシアに対抗するため軍備拡張を進め、その財源を確保するため地租増徴の継続をはかった。衆議院の多数を占める立憲政友会は、初めこれに反対したが、桂は国債などを財源とすることで立憲政友会と妥協し、ロシアとの戦争に備えた。ー方、ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江おうりょくこうを越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。

満州進出と日米摩擦

イギリスとは1905(明治38)年に日英同盟協約の改訂を行い、(1)同盟適用範囲をインドにまで拡大し、(2)イギリスは日本の韓国指導権を確認し、(3)期間を10年に延長して攻守同盟の性格を与えた。しかし、1911(明治44)年の改訂ではアメリカに対する除外例を設け、日英の協調関係はしだいに冷却化していった。

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61.列強の国際対立の激化

61.列強の国際対立の激化
61.列強の国際対立の激化流れ図 ©世界の歴史まっぷ

三大勢力(英・露仏・独墺)の鼎立

ドイツのビスマルク体制は、1890年に世界政策をかかげるヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の親政が始まると瓦解しはじめた。皇帝がロシアとの再保障条約の更新を拒否したので、ロシアはドイツ・オーストリアに対抗し、工業化の資本を得るためにもフランスに接近し、1891年から1894年にかけて露仏同盟を成立させた。これによりフランスは外交的孤独を脱し、国際関係は流動化した。ドイツは中東に関心をむけバグダード鉄道の建設を進め、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶ3B政策で、イギリスの3C政策を脅かした。イギリスはイラン・アフガニスタンでロシアとの対立を深め、さらに義和団事件以後ロシアの脅威を感じ、1902年日英同盟を結んで「光栄ある孤立」政策を放棄した。また1904年英仏協商を結び、アフリカでのイギリス・フランス間の対立関係を調整した。

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