新井白石
新井白石(有朋堂書店/先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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新井白石 あらいはくせき( A.D.1657〜A.D.1725)

学者、政治家。牢人の子で木下順庵に朱子学を学び、甲府時代の家宣の侍講となる。家宣の将軍就任で、幕閣に入り正徳の政治を行う。『読史余論』などの歴史研究や『西洋紀聞』などの蘭学の先駆的実績でも有名。

新井白石

学者、政治家。牢人の子で木下順庵に朱子学を学び、甲府時代の家宣の侍講となる。家宣の将軍就任で、幕閣に入り正徳の政治を行う。『読史余論』などの歴史研究や『西洋紀聞』などの蘭学の先駆的実績でも有名。

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江戸時代中期の学者、政治家。白石は号、名は君美。木下順庵に朱子学を学び、甲府侯徳川綱豊に仕えた。綱豊が6代将軍家宣になるとともに幕政に参加、いわゆる「正徳の治」を行なった。政治上の事績としては「武家諸法度」の改訂、貨幣の改鋳、長崎貿易の制限、儀式典礼の整備などがあげられる。吉宗が8代将軍になるとともに政界を退き、以後は学問に専念。学者としてもすぐれ、合理性と実証を重んじ、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮した。漢詩人としても高く評価され、『藩翰譜はんかんぷ』(1701)、『折たく柴の記』(16起筆)などすぐれた著書を残している。ほかに、語源を研究した『東雅』(19)、綴字法について研究した『東音譜』、文字を研究した『同文通考』、外国の事情について記した『采覧さいらん異言』(13)、『西洋紀聞』(15)、日本歴史について論じた『読史余論』(12)、『古史通』(16)などの著書があり、現在でもそれぞれ高く評価されている。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018

不運な仕官生活を経て6代将軍家宣の儒臣に

将軍綱吉時代の大老・堀田正俊に仕えていた新井白石は、その聡明さから将来を嘱望されていた。しかし、正俊が江戸城内で殺害されると堀田家は傾き、白石は浪人生活を送らざるをえなくなった。その後、儒学者木下順庵きのしたじゅんあんの門下生となり頭角を現わし、順庵の推挙によって甲府藩主徳川綱豊侍講じこうに採用された。ときに37歳。白石は居場所を得た。家宣と改名した綱豊が1709年(宝永6)、6代将軍に就任。白石は儒臣となり、家宣の政治を支えることになった。白石は政治の刷新を図る。まず「この法律だけは廃止してくれるな」と遺すほど綱吉が執着していた「生類憐み令」をあっさり撤廃。綱吉の葬式も済んでいない時期での廃止であった。白石は側用人・間部詮房とともに、積極的に政治に関わっていく。朝鮮通信使の待遇を簡素化して経費を削減し、高純度の正徳小判を発行しインフレに歯止めをかけた。家宣死後も、幼少の徳川家継を7代将軍に頂いて、「正徳の治」を続行。金銀の海外流出を防ぐため「海舶互市新例かいはくごししんれい」で長崎貿易を制限した。学問に秀でた白石は口も達者だったという。政策に反対する者は徹底的に論破し、周囲からは「鬼」と恐れられると同時に反感も買った。徳川吉宗が将軍に就任すると、冷遇され、辞任を余儀なくされた。隠居後は読書と著述に過ごした。

思いやり:白石は甲府藩に出仕する前に順庵から加賀藩への仕官を勧められた。しかし、加賀に老母がいるという同門の岡島石梁の話を聞いて、白石はそれを岡島に譲ったという逸話が残っている。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の展開

幕営の安定

正徳の政治

新井白石と正徳の政治

政策内容幕政の刷新①生類憐み令の廃止
荻原重秀罷免
朝幕関係の融和閑院宮家の創設
儀礼の整備①儀式・服制・官位の整備
②朝鮮通信使の待遇を簡素化
③国書に使用する「日本国大君」号を「日本国王」号に復す
経済政策①貨幣改鋳:正徳小判=良質の貨幣を発行
②海舶互市新例
・目的:金銀の海外流出を防止
・内容:貿易額を制限
結果儒教に基づく理想主義的政策が、現実と食い違いかえって政治を混乱させた
参考:山川 詳説日本史図録
1709(宝永6)年、5代将軍綱吉が死去したあと、甥の甲府藩主であった将軍世子徳川家宣(1662〜1712)が6代将軍となった。家宣は、綱吉の政治を支えた柳沢吉保を排除し、かわって側用人間部詮房まなべあきふさ(1666〜1720)と儒者新井白石(1657〜1725)を信任して、政治の刷新をはかった。
間部詮房と新井白石

間部詮房まなべあきふさの父は甲府宰相綱重(家宣の父)に抱えられ、詮房は桜田御殿(甲府藩江戸屋敷)用人から西の丸にしたがい、家宣が将軍になると3万石の老中格になり、やがて上野国高崎城5万石が与えられた。新井白石は浪人を繰り返したのち、朱子学者木下順庵の門弟となり、木下の勧めで甲府藩主綱豊(家宣)の侍講じこうになった。西の丸・本丸へと移り、1709(宝永6)年に伯者として500石、1711(正徳元)年に1000石が与えられた。学者の俸禄は常に少ないのである。

まず生類憐み令を廃止し、賄賂を厳禁した。しかし、服忌令をはじめとして前代の忠孝・礼儀の政治は受け継がれ、朝廷との協調関係も増した。朝廷では、霊元天皇をおさえ込んだ近衛基熙このえもとひろ(1648〜1722)が太政大臣となり、息子の近衛家熙このえいえひろ(1667〜1736)が関白となって中枢を占めた。近衛基熙の娘は、将軍家宣の正室でもあり、幕府と朝廷の協調は、閑院宮かんいんのみや家創設となって具体化した。それまで宮家(世襲親王家)は伏見ふしみ·かつら有栖川ありすがわの3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家して門跡寺院に入室している状態を少しでも改善しようと、幕府は費用を献じて特例として閑院宮家を設け、以後4宮家は幕末まで存続した。

1711(正徳元)年、家宣の将軍宣下を慶賀する朝鮮通信使が日本に来訪した。その際、新井白石は従来の外交文書とは異なる礼法を用いた。それまでの朝鮮からの国書には、日本の将軍に対して「日本国大君たいくん」と書かれてきた。これを「日本国王こくおう」宛てに改めさせたのである。「大君」が「国王」より低い意味をもつことを嫌ったからである。また、使節の待遇は丁重に過ぎたと、これを簡素に改めた。

しかし将軍家宣は、1712(正徳2)年に病死した。治政3年9カ月の短命な将軍であった。跡を継いだ子の徳川家継(1709〜16)は、満で3歳2カ月の幼児であった。幕政における間部と白石への依存度は増した。白石らは、幼児将軍を権威づけるために、家継と皇女八十宮やそのみやの婚約を1715(正徳5)年に発表した。ときに将軍は満5歳、皇女は2歳であった。また、将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威をもつように、儀式・典礼を重視し、身分の上下が一目で明確になるように服制も整備された。

新井白石は、幕府財政を握っていた荻原重秀を罷免させたあと、1714(正徳4)年、正徳小判を発行した。これは、慶長小判と同じ金の含有率、量で、元禄小判乾字金で混乱した貨幣流通を回復させようとした。貨幣改鋳とならんで白石の経済政策として長崎貿易の制限がある。オランダ・中国(明・清)との貿易で、1601(慶長6)年以降1708(宝永5)年までの100年余りで国内の産出金銀の金4分の1、銀4分の3が流出したと白石は概算し、海舶互市新例かいはくごししんれい(長崎新令·正徳新令)を1715(正徳5)年に出して、l年間に清船は30隻、銀高6000貰、オランダ船は2隻、銀高3000貰に貿易額を制限した。

新井白石の政策は、為政者として正当なものを打ち出したようにみえる。しかし、7代将軍家継は1716(享保元)年、急逝したため、新井白石の政治は、短命将軍、幼児将軍合わせて8年に満たないものに終わった。

幕藩体制の動揺

化政文化

洋学の発達

化政文化 洋学

西川如見にしかわじょけん(1648-1724)天文暦算家。長崎出身で将軍吉宗に招かれて江戸へ。長崎で見聞した海外事情を『華夷通商考かいつうしょうこう』で記述。
新井白石あらいはくせき(1657-1725)イタリア人宣教師シドッチの尋問で得た世界の地理・風俗を『西洋記聞せいようきぶん』『采覧異言さいらんいげん』で著述。
青木昆陽あおきこんよう(1698-1769)将軍吉宗の命でオランダ語を学び、甘藷(さつまいも)栽培を進める。『蕃薯考』『和蘭文字略考』
野呂元丈のろげんじょう(1693-1761)本草学者。将軍吉宗の命でオランダ薬物学を研究。『阿蘭陀本草和解』
山脇東洋やまわきとうよう(1705-62)古医方(実験を重んじる漢代の医方)による日本初の解剖書『蔵志ぞうし』を著した。
前野良沢まえのりょうたく(1723-1803)杉田玄白と『解体新書』を訳述。
杉田玄白すぎたげんぱく(1733-1817)前野良沢と『解体新書』を訳述。『蘭学事始らんがくことはじめ
大槻玄沢おおつきげんたく(1757-1827)蘭医。江戸に芝蘭堂しらんどうを開く。『蘭学階梯らんがくかいてい
宇田川玄随うだがわげんずい(1755-97)日本初のオランダ内科書『西説内科撰要』を著述。
宇田川榕菴(1798-1846)イギリスの化学書を翻訳。『舎密開宗』
稲村三伯いなむらさんぱく(1758-1811)最初の蘭日対訳辞書『ハルマ和解』(ハルマの蘭仏辞典を和訳)を作成。
志筑忠雄しづきただお(1760-1806)暦象新書れきしょうしんしょ』を訳述して、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介。ドイツ人医師ケンペルの『日本誌』を翻訳して『鎖国論』と題した。
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

キリスト教禁止、鎖国状態のため、ヨーロッパの学術・知識の研究や吸収は困難をきわめたが、長崎出島のオランダ人などを通じてしだいに学ばれていった。その先駆けとして西川如見にしかわじょけん(1648-1724)は『華夷通商考かいつうしょうこう』において海外事情と通商関係を記述し、新井白石あらいはくせきは1708(宝永5)年にキリスト教布教のため屋久島に潜入したところを捕えられたイタリア人宣教師シドッチ(Siddotti, 1668-1714)を尋問し、そこから得た世界の地理・物産·民俗などの知識をもとに『采覧異言さいらんいげん』『西洋記聞せいようきぶん』を著した。

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