康有為の写真
康有為(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

康有為


康有為 こうゆうい( A.D.1858〜A.D.1927)

清末の学者・変法運動の指導者。1888年光緒帝に上申して、公羊学くようがくの立場から洋務派を批判し、徹底した内政改革(変法)により強国となること(自強)を強調した。98年、光緒帝に登用されて戊戌の変法ぼじゅつのへんぽうを開始するが、保守派の巻き返しで失敗し、日本に亡命した。日本で孫文らの革命派に対抗して、99年に帝政擁護の保皇会ほこうかいを組織した。辛亥革命後は、共和政に反対して、清朝回復策動に加担した。

康有為

A.D.1858〜A.D.1927 清末の学者・変法運動の指導者。1888年光緒帝に上申して、公羊学くようがくの立場から洋務派を批判し、徹底した内政改革(変法)により強国となること(自強)を強調した。98年、光緒帝に登用されて戊戌の変法ぼじゅつのへんぽうを開始するが、保守派の巻き返しで失敗し、日本に亡命した。日本で孫文らの革命派に対抗して、99年に帝政擁護の保皇会ほこうかいを組織した。辛亥革命後は、共和政に反対して、清朝回復策動に加担した。

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清末から民国初期の学者、政治家。広東省の人。西洋技術の摂取が中心の洋務運動ではなく、明治維新にならった政治改革の変法運動を主張。光緒帝に登用され「戊戌の変法」を実施。だが西太后袁世凱ら守旧派の弾圧「戊戌の政変」で失脚、日本に亡命した。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

アジア諸地域の繁栄

清代の中国と隣接諸地域

清代の社会経済と文化

乾隆時代の後半からは儒教経典の『春秋』に注釈書のひとつである『春秋公羊伝しゅんじゅうくようでん』を正統として、そのなかにみえる孔子 古代思想界の開花)の思想を現在に実行しようとする公羊学派がおこった。『春秋公羊伝』を正統としこれを研究する公羊学は、すでに漢代にみられたが、その後はおこなわれず、清になって復活したものである。公羊学は江蘇省出身の荘存与そうそんよ(1719〜1788)によって始められ、清末の政治家で変法自強へんぽうじきょうの推進者となった康有為こうゆういに大きな影響を与えた。

帝国主義とアジアの民族運動

アジア諸国の改革と民族運動

戊戌の変法

日清戦争の敗北は、洋務運動( 洋務運動)を完全な挫折に追いこむとともに、中国の知識人層に深い危機感をもたらした。とくに若い知識人の間では、中国伝統の専制体制をあくまで固守しようとする洋務運動のあり方を批判し、中国の真の近代化のためには、伝統的な君主独裁の専制体制そのものの変革が必要であるという認識が強まっていった。彼らは、西欧の近代政治思想の刺激をうけるとともに、近代化改革のモデルとして日本の明治維新を強く意識し、欧米・日本の近代的政治体制と理念をとりいれた議会政治や立憲君主制の樹立などを主張した。洋務運動にかかわって1890年代に高揚した、このような中国の伝統的専制体制の変革と、議会政治と立憲君主政の樹立を目標とする近代化運動を変法運動変法自強へんぽうじきょう)という。その中心となったのが、公羊くよう学派の儒学者であった康有為こうゆうい(1858〜1927)であった。

康有為は『孔子改制考こうしかいせいこう』を著し(1892)、儒学の祖である孔子は、守旧の人ではなく、聖人の言をかりて当時の政治の改革を実現しようとした改革者であったという大胆な新解釈を提示して、変法運動の理論的根拠とするとともに、知識人層に大きな衝撃を与えた。このようにして康有為は、梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)らとともに、文筆・教育活動をつうじて若手の官僚・知識人層に多くの支持者を集め 譚嗣同たんしどう(1865〜98) 黄遵憲こうじゅんけん(1848〜1905)など有力な同志を獲得していった

康有為は北京に強学きょうがく会を設立して啓蒙活動に努め、1896年に強学会が弾圧をうけて閉鎖されると、梁啓超らは、雑誌『時務報じむほう』を創刊して啓蒙活動を継続していった。

譚嗣同は、南学会の設立など湖南省を舞台に精力的な変法運動を展開した若手知識人で、その著書『仁学じんがく』は専制君主政への激しい非難とともに、自然科学的発想によって人間社会を把握しようとするユニークな思想書として知られる。

1890年代後半、帝国主義列強の中国侵略が再び激化するなかで、清朝と中国の危機を救うため立憲制の政体へ転換する必要を説く康有為の主張は、若い光緒帝こうしょてい(位1874〜1908)を強く動かした。保守派の妨害をふりきって政治改革を決意した光緒帝は、1898年6月「明定国是めいていこくぜ(明らかに国是を定める)の勅令」を発布し、康有為・梁啓超らを登用して政治改革を断行させた。これを戊戌の変法ぼじゅつのへんぽうという。康有為らは、科挙の改革(八股文はっこぶん を廃止し、西学せいがくを試験科目に導入する)や、新官庁の創設、京師大学堂(北京大学の前身)をはじめ近代的学校の創設など、多くの改革案を次々と発布した。しかし、変法に反対する保守派は、西太后せいたいごう(前帝同治帝の母后、1835〜1908)のもとに結束し、同年9月、クーデタをおこして光緒帝を幽閉し、政権を奪取した。譚嗣同たんしどうら6名が処刑され、康有為・梁啓超らは失脚して日本に亡命し、変法派は一掃されて、戊戌の変法はわずか3ヶ月余りで挫折に終わった(百日維新)。このクーデタを戊戌の政変という。これ以後、西太后のもとで保守派が政権を握り、朝廷には排外的な傾向が強まっていった。

八股文とは、儒教の教義に関するテーマを、煩瑣はんさな規則をともなうきわめて固定された形式のなかで論ずるもので、科挙の試験の中心をなすものであった。

戊戌の変法の失敗にはさまざまな要因が考えられる。それは変法運動があくまで社会上層の知識人階層の運動に止まって、民衆の支持基盤を欠いたことである。そして康有為ら変法運動のリーダーは、仇教運動きゅうきょううんどうなどの下からの民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を一歩も抜けだせなかった。ここに大きな失敗の原因が求められる。

公羊学

公羊学とは、儒教の経典『春秋』の注釈書「左氏さし伝」「穀梁伝こくりょうでん」「公羊伝」のうち、「公羊伝」を正統とする学派で、政治上の実践をとくに重視した。文献研究に没頭する考証学とは対照的なこの学派は、アヘン戦争後の清朝の危機のなかで、危機克服の意識とともにさかんとなり、『海国図志』の著者ぎげん龔自珍きょうじちんらが活躍した。康有為の『大同書』は、公羊学の伝統に西洋政治思想や仏教の要素もとりいれ、なおかつ斬新な独創を加えて、壮大な未来のユートピアを構想するきわめてユニークな思想書であり、清末政治思想のひとつの特異な成果として注目されるものである。

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近代国家の成立

日露戦争と国際関係

北清事変と日英同盟

列強の進出に対抗して、清国内には光緒帝こうしょてい(1871〜1908)のもとで康有為こうゆうい(1858〜1927)·梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)らを中心に 、明治維新以来の日本の改革にならって立憲政治を取り入れて国内の改革をはかり、国力を充実しようとする動き(変法自強の運動(戊戌の変法))がおこったが、1898年、西太后せいたいこう(1835〜1908)ら保守派のクーデタによって変法派は一掃され、その多くは日本などの海外に亡命を余儀なくされ、改革は挫折した(戊戌の政変ぼじゅつのせいへん)。

日本に亡命した梁啓超は、日本の歴史・文化・生活習慣などを研究して、業績をあげた。
戊戌の変法
戊戌の政変 ©世界の歴史まっぷ

19世紀末、日清戦争に敗れて洋務運動からの転換を迫られた清国は、康有為らを中心に明治維新を範に議会政治を基本とする立憲君主制をめざす変法運動を展開した。しかし、西太后によって変法運動は弾圧され、義和団の乱を招くこととなった。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

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62.アジア諸国の改革と民族運動

62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図
62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図 ©世界の歴史まっぷ

中国分割の危機と義和団事件

日清戦争の敗北は、中国の若い官僚・知識人層に危機感をつのらせた。彼らは日本の明治維新を範として、議会政治を基礎とする立憲制の樹立をめざした。公羊くよう学派の康有為こうゆういらによるこの改革を変法運動(戊戌の変法ぼじゅつのへんぽう)という。彼らは1898年に光緒帝を動かして政治改革を断行したが、改革に反対する西太后を中心とする保守派のクーデタにより、わずか100日余りで倒された。これを戊戌の政変という。

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