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天龍寺 (天竜寺) てんりゅうじ

足利尊氏(開基)のあつい帰依を受けた臨済宗の夢窓疎石(開山)が、後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが造営費用には足りず、足利直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開した(天龍寺船)。1345(康永4)年落慶し、南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に位置付けた。世界遺産「古都京都の文化財」に含まれる。

天龍寺

歴史

創建と興隆
その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。
造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、足利直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。
造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。

火災と兵火
かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。
この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。
以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。

復興と再建
こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。
昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。
なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。

参考 世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 公式ホームページ

武家社会の成長

室町文化

南北朝文化

仏教では、鎌倉時代に武家社会の上層に広まった臨済宗に夢窓疎石むそうそせき(1275〜1351)が出て、将軍足利尊氏のあつい帰依を受けた。疎石は、尊氏・直義兄弟に勧めて元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺利生塔りしょうとうと呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。このように足利尊氏の夢窓疎石に対する信頼には絶大なものがあり、彼らの交流をきっかけとして、臨済宗の、とりわけ夢窓疎石の流派が、室町幕府の保護のもとで大いに栄えることになったのである。疎石は漢詩文に巧みであったほか、作庭の分野でも西芳寺庭園天龍寺庭園などの名園を残し、禅宗文化の興隆にも大きく貢献した。
こうして南北朝時代には、のちの北山文化や東山文化へとつながる室町文化の基礎が形作られたのである。

幕府の衰退と庶民の台頭

東アジアとの交易

日本と元(王朝)との間には正式な国交はなかったが、私貿易は依然として盛んであった。元(王朝)と戦った鎌倉幕府も、建長寺再建の費用を得るために、1325(正中2)年に建長寺船を派遣している。足利尊氏はこれにならい、後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺造営を目的として、1342(康某元)年から数回の天竜寺船を派遣した。

詳説日本史研究

ギャラリー

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