南北戦争
南北対立と南北戦争時のアメリカ地図 ©世界の歴史まっぷ
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南北戦争

北部のリンカンが第16代大統領に就任すると、南部はリッチモンドを首都としてアメリカ連合国 を結成して連邦から脱退。リンカンは奴隷解放より連邦の統一を優先したが失敗。南部側によるサムター要塞攻撃を機に南北戦争が勃発した。

南北戦争

アメリカ合衆国の南部と北部は、経済的構造の相違からしだいに対立するようになった。南部地域は独立以前から、黒人奴隷を労働力とするタバコ・米・藍・綿花などを栽培する大農園(プランテーション)が普及していた。特に産業革命以降は材料としての綿花の需要が増大し、この地域の経済は発展をとげた。南部地域はイギリス本国へ原料の供給、工業製品の購入という相互依存関係が成立していたので、外国製品に関税をかけない自由貿易制度を主張し、連邦政府の権限を縮小して州の自治を尊重する方向をめざした。

The Disunited States — A Black Business (画像出典:The Disunited States — A Black Business

アメリカ”不”合衆国 – 黒人問題:図では黒人奴隷が南北を切り裂いているが、南北対立の根底には、西部の新州が奴隷州(南部)になるか自由州(北部)になるかは、連邦議会での優位、政治・経済の方向性に大きく影響したことがあった。(『パンチ』1856年)

これに対して北部は、産業革命が1840年代以降本格的に進行することになって技術・生産の面で進んでいたイギリス本国の工業とは競合する関係にあった。そのため、アメリカの工業製品の市場を確保するためにも優秀なイギリス製品を排除する必要があり、保護主義の立場を主張し、その政策を確実に実行するために中央政府の権限を強化する連邦主義の立場をとった。

アメリカの産業革命の開始期については諸説あるが、1812年の戦争のころから徐々にその姿が現れはじめたので、1815年を産業革命の開始期とする考えもある。しかし、これは木綿工業に機械が導入されたが動力は水力であり、製鉄、石炭、動力としての蒸気機関の導入は1840年代から南北戦争前夜にかけてであるので、これを開始期とするのが一般的である。

両地域の対立は西部の開拓が進むにつれ、西部に新しく生まれる州の争奪というかたちで激化した。1820年両地域はミズーリ協定を結んで北緯36度30分以北に生まれる新しい州は奴隷制度を認めない自由州、それ以南に生まれた州は奴隷州にすることにして妥協した。しかし、1822年よりアメリカ合衆国で解放された黒人がリベリア共和国の建設を開始して47年独立を達成したように、黒人奴隷の開放へむけての運動は耐えることがなかったし、合衆国の内部対立の火種としてくすぶり続けた。アメリカ=メキシコ戦争の結果、アメリカ合衆国に編入されたカリフォルニア・ニューメキシコの扱いに関して南部と北部との間で対立がおきたが、カリフォルニアは自由州とするがニューメキシコについては住民の決定を待ち、さらに北部は奴隷逃亡取締法を実施することで妥協が成立した(1850年の協定)。2年後の52年、ストウ夫人 Stowe (1811〜96)は黒人奴隷を主人公とする『アンクル=トムの小屋』を出版したので、北部地域では黒人奴隷制反対の世論が高まった。

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南北戦争
南北対立と南北戦争時のアメリカ地図 ©世界の歴史まっぷ

❶1861 サムター要塞, ❷1861 第1次ブルラン, ❸ 1862 ヘンリー要塞, ❹ 1862 ドネルソン要塞, ❺ 1862 シャイロー, ❻ 1862 ニューオリンズ, ❼ 1862 第2次ブルラン, ❽ 1862 アンティータム, ❾ 1862 フレデリックスバーグ, ❿ 1863 チャンセラーズヴィル, ⓫ 1863 ヴィックスバーグ, ⓬ 1863 ゲティスバーグ, ⓭ 1864 荒野の戦い, ⓮ 1864 ピーターズバーグ, ⓯ 1864 アトランタ, ⓰ 1864 フランクリン, ⓱ 1864 ナッシュヴィル, ⓲ 1865 アポマトックス 参考:ビジュアル 世界史1000人(下巻)

こうしたなか、西部に生まれた新しいカンザス・ネブラスカ両州が連邦に加盟する際、ミズーリ協定が破棄され、住民投票によって奴隷州にするか自由州にするか決定することになったので(1854年 カンザス・ネブラスカ法)、奴隷制の拡大を恐れる反対派は同年、ホイッグ党を発展的に解消して共和党を結成した。当時、南部から北部へと黒人奴隷が逃亡するのを助ける地下組織(アンダーレイルロード)が活発に活動していたが、業を煮やした南部側が裁判所の判断を求めた。57年、奴隷が自由州に逃げても解放されないとする最高裁判決(ドレッド=スコット判決)が出て南部側は勝利したが、北部の奴隷制反対派は激しく反発した。急進的解放論者であったジョン=ブラウン John Brown (1800〜59)は59年、ヴァージニア州で武装蜂起をおこなったが期待された黒人の協力と蜂起はおこらず、反乱は失敗に終わり、絞首刑にされた。こうして政治問題となった黒人奴隷制問題は60年の大統領選挙の際最大の争点となった。

1860年の大統領選挙では、共和党はリンカン A.Lincoln (1809〜65 任1861〜65)、民主党はブレッキンリッジ J.C.Breckinridge (1821〜75)を候補として激しい選挙戦が展開されたが、リンカンが勝利して第16代大統領に就任した。南部はこの事実を認めようとせず、61年2〜3月リッチモンドを首都とし、ジェファソン=デヴィス Jefferson Davis (1808〜89)を大統領とするアメリカ連合国 Confederate States of America を結成して連邦から脱退した。リンカン大統領は穏健な奴隷解放者であったので、奴隷解放より連邦の統一を優先する方針をとって南部側の独走を抑えようとしたが失敗し、南部側によるサムター要塞攻撃事件が61年4月おきるにおよんで南北戦争(1861〜65)が勃発した。

北部はもともと人口・農地・工場・預金高・鉄道の敷設距離など、戦力の面で南部と比較して優勢であったが、有能な将軍がいなかったため、戦争開始段階では南部がヴァージニア出身のリー将軍 Lee (1807〜70)のもと優勢に戦局を展開した。北部側は劣勢をはね返すために将軍を更迭したり、南部の補給ルートを断つために海上封鎖を実施したりした。さらに西部地域の支持を獲得する意図もあって、62年ホームステッド法 Homestead Act を制定して5年間西部に定住しただけで160エーカーの土地を無償で提供することを決めた。またイギリスや当時メキシコに軍隊を派遣していたフランスの干渉を排除するために、奴隷解放宣言を1863年1月発表し、内外に北部の戦争目的の正当さをアピールした。ミシシッピ川流域で連勝していたグラント将軍 Grant (1822〜85 任1869〜77)が北軍の最高司令長官に就任するころから、戦局はしだいに北部側優勢へと転換し、63年のゲティスバーグの戦い Gettysburg で北部深く侵入したリー将軍率いる南軍を北軍が破ると、北部の優勢は動かないものとなった。補給がない南軍はしだいに追いつめられ、シャーマン将軍 W.Sherman (1820〜91)はアトランタを占領し、グラント将軍はリー将軍を追いつめた。1865年ついに連合国 の首都リッチモンドが陥落して南北戦争は北部の勝利に終わった。

奴隷解放宣言:これは本宣言で、1862年9月22日にすでに南部諸州が100日以内に連邦に復帰しなければ奴隷解放宣言をおこなうだろうという通告(予備宣言)をしていた。正式な奴隷解放は憲法修正第13条で実現した。

ゲティスバーグの演説:1863年11月19日ゲティスバーグの戦場を国立墓地にして戦死者を弔う式典が行われた際、リンカンはたった2分間の短い演説をおこなった。これが「人民の、人民による、人民のための政治 (Government of the people, by the people, for the people) を地上から絶滅させないために…」という名演説である。

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