典礼問題
マテオ・リッチ(左)と徐光啓(右)(画像出典:Wikipedia

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典礼問題 (17世紀〜18世紀)

明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながらおこなった布教活動の一手段として、中国の伝統文化を重んじ自ら儒学者の服装を着用し、孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)を容認したことに、ドミニコ派やフランチェスコ派の宣教師たちが教義に違反すると避難し、ローマ教皇は中国の典礼を受け入れたイエズス会の布教活動を禁じ、康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止した。

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明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながら布教活動をおこない、その結果、明末には15万人もの信者が数えられるようになった。それは彼らが中国内での布教活動促進の一手段として、中国の伝統文化を重んじ、中国語を習得して古典を研究し、自ら儒学者の服装を着用したからである。さらに彼らは、儒教でいう天帝・上帝はキリスト教の神(デウス Deus)と同じであるとして、中国人信者が依然としてやめない孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)をも容認したのである。ところが、イエズス会宣教師により遅れて中国へ来航したドミニコ派やフランチェスコ派の宣教師たちは、こうしたイエズス会の布教活動に対し、キリスト教の教義に違反するものであるとして激しく非難し、ローマ教皇に訴えた。これを「典礼問題」といい、激しい論争の結果、クレメンス11世(ローマ教皇)は1704年、中国の典礼を受け入れたイエズス会の布教活動を禁じた。

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マテオ・リッチ(左)と徐光啓(右)(画像出典:Wikipedia

マテオ・リッチ(左)と徐光啓(右)マテオ・リッチは中国では利瑪竇りまとうと名乗り、中国の官人用の服を着た。北京で没した後は、ゴア(インド)に葬られた。

これを知った康熙帝は大いに怒り、典礼を認めるイエズス会宣教師以外の布教活動を禁じ、他派の宣教師を追放する決定をくだした。さらに雍正帝は、福建省でおきたドミニコ派宣教師に関する事件をきっかけに、1724年キリスト教布教禁止の命をだした。このため、朝廷において学問や芸術などの特殊な仕事に関わっている宣教師以外は中国移住が認められず、マカオに追放となった。

こうして中国におけるキリスト教の布教活動は禁止されたが、日本の場合とはことなり、それほど徹底したものではなく、地方官も厳しくは取り締まらなかったことから、ひそかに宣教師が中国内へ侵入して、ほそぼそと布教活動をおこなっていた。

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