今川貞世
今川伊豫守貞世(天保15年出版『英雄百人一首』より)©Public Domain

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今川貞世 いまがわさだよ (法名:了俊りょうしゅん)( A.D.1326〜A.D.1420〜?)
鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。歌人としても名高い。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ね、20年間で南朝勢力を一掃。名声の高まりを将軍義満に警戒され、探題の任を解かれて失脚、晩年は著作に専念。武家故実に詳しく『難太平記』などの著がある。

今川貞世

九州に幕府勢力を広げた学者武将

南北朝期から室町中期の武将。歌人としても名高い。本名は貞世。駿河・遠江国の守護。1371年(建徳2・応安4)に九州探題となり、20年間で南朝勢力を一掃。讒訴ざんそで罷免され、晩年は著作に専念。武家故実に詳しく『難太平記』などの著がある。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

武家社会の成長

室町幕府の成立

室町幕府
守護抑制(室町時代)地図
守護抑制(室町時代)地図 ©世界の歴史まっぷ

幕府の地方機関としては鎌倉府やいくつかの探題がおかれた。尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、足利義詮の弟の足利基氏(1340〜67)を鎌倉公方として鎌倉府を開かせ、関東8カ国と伊豆・甲斐を加えた10カ国を支配させた。鎌倉公方は幕府と同じ組織をもついわば第2の幕府で、京都の幕府に強い対抗意識をもち、しばしば衝突を引きおこした。

探題は京都から遠い地域におかれた。九州探題(鎮西探題とも)・奥州探題・羽州探題である。奥州・羽州探題は陸奥・出羽を統治するものだが、両国が1392(明徳3)年に鎌倉府の管轄になると実質を失い、斯波一族の大崎氏と最上氏とが名称だけを世襲した。九州探題では今川貞世いまがわさだよ了俊りょうしゅん 1326〜?)の活躍が著名で、九州の武士を指揮した貞世は20年にわたって征西宮懐良親王かねよししんのう後醍醐天皇の皇子 1330〜83)の勢力と戦い、一時は九州全土を席巻する勢いを示していた南朝の征西府を壊滅に追い込んだ。だが、貞世は名声の高まりを将軍義満に警戒され、探題の任を解かれて失脚した。九州探題の働きは貞世の退場とともに衰え、渋川氏が世襲する、やはり名ばかりの存在となった。

室町文化

南北朝文化
『太平記』と『難太平記』

難太平記なんたいへいき』は15世紀初頭に今川貞世(了俊)が今川家の歴史を子孫にに伝えるために著したもので、源義家が「7代後の子孫に生まれかわって天下をとる」と語った話や、足利尊氏の祖父足利家時(生年不詳)が「3代のうちに天下をとらせよ」とかみに祈って切腹した話など、足利氏の歴史の深奥に迫る興味深い逸話がみえ、『太平記』の成立についても『難太平記』は貴重な話を載せている。昔、法勝寺の恵鎮上人が足利直義のもとに『大平記』を持参し、それを玄恵げんえ法印が読んで聞かせたところ、あまりに誤りが多いので、聞いていた直義が怒ったという話がそれだが、ここから直義の在世中にすでに『太平記』の原型がつくられていたこと、それは後醍醐天皇とも縁の深い恵鎮上人の周辺でつくられたらしいことがわかる。その後、何度か加筆や修正がほどこされ、1370年代ころに現在知られている『太平記』の形がほぼできあがったと考えられている。なお『難太平記』は、本来『大平記』に関する著作ではないが、『太平記』の内容を批判する記事がみえることから、後世、『難太平記』と呼ばれるようになった。

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