人権宣言
人間と市民の権利の宣言(世界の記憶/Jean-Jacques-François Le Barbier画/カルナヴァレ博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

人権宣言


人権宣言 (1789)

一般にフランスの「人間と市民の権利の宣言」を指す。フランス革命勃発直後に、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、人間の自由・平等・主権在民、私有財産の不可侵など近代市民社会の基本原則をうたう人権宣言を採択。アンシャン・レジームの消滅と市民革命の原理を明らかにした。

人権宣言

人権をうたった宣言を広くいう場合もあるが、一般にはフランスの「人および市民の権利の宣言」(1789)を指す。イギリスのマグナ・カルタ(1215)や権利宣言 Declaration of Rights (1689)、権利章典 Bill of Rights (89)などを経て、1776年近代的、体系的な人権宣言の起源とされるバージニア権利章典が採択される。そこではヨーロッパの社会契約説あるいは天賦人権思想の影響を受けて、生命、自由、財産の権利を含む広範な人権、自由がうたわれている。その後アメリカ諸邦(ステイツ)の権利宣言や独立宣言の影響のもとにフランスの「人および市民の権利の宣言」が生れた。前文と17ヵ条から成るこの宣言の基本的仕組みは、まず自然的諸権利の存在を宣言し、それを保全するために政治的結合=国家が形成され、この国家形成の基本原則として市民的諸権利を保障するというものである。この宣言はヨーロッパ内外に甚大な影響を与え、近代のほとんどの成文憲法が人権宣言を含むようになった。その後20世紀には、社会権的基本権を含む人権宣言や社会主義的人権宣言の登場によって、人権宣言はその内実の変容をとげた。また世界人権宣言(1948)、国際人権規約(66)などにより人権の擁護、確立は国際的な課題とされるにいたった。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

革命の進展

1789年8月26日、国民議会は自由主義的貴族のラ=ファイエット La Fayette(1757〜1834)らが起草した17条からなる「人権宣言」を採択した。正式には「人間と市民の権利の宣言」というこの宣言は、人間の自由・平等の権利、自由・財産の安全および圧政に対する抵抗の権利、国民主権、法の支配、言論・出版の自由、私有財産の不可侵など近代市民社会の基本原則を確認している。

フランス人権宣言(抜粋)

  • 第ー条:人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また、存在する。社会的な差別は、共同の利益にもとづいてのみ、設けることができる。
  • 第二条:あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利とは自由・所有権・安全および圧政への抵抗である。
  • 第三条:あらゆる主権の原理(起源・根源)は、本質的の国民のうちに存在する。いかなる団体、いかなる個人も、国民から明白に由来するものでない権威を、行使することはできない。
  • 第十七条:所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も、適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また、事前の公正な補償の条件のもとでなければ、それを奪われることはない。

「神聖かつ不可侵」の所有権

人権宣言では、所有権は自由や安全とならぶ「人間の自然で時効により消滅することのない権利」であり、「所有権は神聖かつ不可侵である」とされている。土地所有権についていえば、大革命は個々の土地所有者を擁護するため、重層的で前近代的な所有権を近代的所有権に一元化しようとした。封建諸税の徴収権というかたちで残っていた領主の封建的土地所有権は、1793年の封建的諸特権の無償廃止により一掃された。教会や亡命貴族の不動産は没収されて国有財産となり、アッシニア紙幣と引き換えに売却された。これら不動産の私的所有権を保証することは、紙幣の信用を支えるためにも必要であった。土地所有者は自分の畑を囲い込む権利が与えられた。共有地を分割して、くじ引きで分配することも決められた。しかし、それは、貧しい農民の共同体的諸権利を抑圧することにもなった。老人・寡婦・子ども・病人・障害者たちが、収穫後落ち穂を拾ったり、二番草を刈り取ったり、家畜用の藁を集めたり、積み残したブドウを集めたり、休耕地に家畜を放牧するなど、それまで貧しい人々に認められていた共同的諸慣習が制限されることになったのである。

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10.近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立

46. フランス革命

1789年5月、三部会が召集されると議決方法で対立し、第三身分はみずから国民議会と称し、憲法制定までは解散しないことを誓った。これを球戯場(テニスコート)の誓いという。これに対して王は貴族に動かされて武力で国民議会を圧迫した。それを知ったパリの民衆は、これに反発して蜂起し、7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃した(バスティーユ牢獄襲撃)。暴動が全国に波及すると、8月4日、国民議会は自由主義的な貴族の提案によって封建的特権の廃止を宣言し、8月26日にはラ=ファイエットらの起草した人権宣言を採択した。これは人間の自由・平等・主権在民、私有財産の不可侵をうたい、旧体制の消滅と市民革命の原理を明らかにしたものである。

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世界の記憶

2003年、ユネスコは「世界の記憶」に1789年の宣言の文書を登録した。

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