ルイ=フィリップ
ルイ=フィリップ(フランツ・ヴィンターハルター画/ヴェルサイユ宮殿蔵/File:Franz Xaver Winterhalter King Louis Philippe.jpg – Wikimedia Commons)©Public Domain

ルイ=フィリップ


ルイ=フィリップ Louis-Philippe( A.D.1773〜A.D.1850)
フランス王国七月王政初代王(在位1830〜1848)。1830年の七月革命により即位。経済不況の圧力を受けた労働者による労働運動や社会主義運動への弾圧、外交上の失敗などから、48年二月革命がおき、ギゾー内閣の更迭で事態の打開をはかったが失敗。王政は廃止されイギリスに亡命した。

ルイ=フィリップ

フランス王(在位1830~48)。オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子。バロア公、シャルトル公、オルレアン公を経てフランス王となった。フランス革命のときジャコバン・クラブに入り、また国民軍将校としてバルミー、ジュマップの戦いに参加した。1793年1月国民公会で国王ルイ16世の処刑が決定されると、革命の立場を捨てスイスに亡命。同年11月山岳派によって父が処刑されると、オルレアン公の地位を継ぎオルレアン王朝派の中心的存在となった。95~96年スカンジナビアを旅行し、次いでアメリカに渡った。1809年ナポリ王フェルディナンド4世(フェルディナンド1世(両シチリア王))の娘マリア・アメリアと結婚。14年第1次王政復古とともに帰国し、自由主義者たちと接近した。15年ナポレオン1世の「百日天下」の際はイギリスに亡命したが、第2次王政復古で帰国。旧所領と財産の再建に力を入れた。30年七月革命のとき王国総代理官を自称し、銀行家J.ラフィットと自由主義政治家の支持を受け、「フランス国王」でなく、「フランス人の王」RoidesFrançaisとして即位、七月王政を開始した。彼の時代には、うちつづく経済不況の圧力を受けた労働者階級の運動が空前の発展をみせ、政府はこれを弾圧、さらに外交上の失敗から、また最終的には、彼の狭量な保守主義と政治・社会問題を解決する意志のないことから、48年二月革命が起った。彼は孫のパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールに王位を譲ったが、王政は廃止され、イギリスに亡命した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

株屋の代弁者に堕ちたフランス最後の王

シャルル10世の反動政治に耐えかねた市民はバリケードを築いて蜂起、「栄光の3日間」と呼ばれる市街戦でブルボン朝を倒す。その後、「バリケードの王」「市民の王」を自称して登場したのがオルレアン家のルイ・フィリップである。自由主義者の彼はフランス革命後、スイス亡命を皮切りに欧州からアメリカまで遍歴。苦労を重ねたが、大資本家や銀行家に担がれ王位に就いたのだ。
彼は正統主義を否定し立憲君主制を導入。自由主義と資本主義を発達させフランスに産業革命をもたらす。だが実態は主権在民の体裁をとった金融資本家のための体制にすぎず、市民からは「株屋の王」と呼ばれた。市民革命により即位したのに選挙権を上層ブルジョワジーに限ったため市民の不満が募り二月革命を招く。これによりウィーン体制は完全に崩壊、900年にわたったフランスの王政も終わりを告げる。革命後はイギリスに亡命し、客死した。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

七月革命とその影響

ブルボン家の復活したフランスではルイ18世(フランス王) Louis XVIII (位1814〜24)が即位し、憲章という名称を使った憲法を制定し、市民の選挙権を大幅に制限し、反動的政治を進めた。ついでシャルル10世(フランス王) Charles X (位1824〜30)が即位すると亡命貴族に財産を保証したり、軍隊の統帥権を掌握したりして反動的政治をさらに推し進め、国民の不満を外にそらすためにアルジェリア出兵をおこなった。1830年5月、国王は内閣不信任案を決議した議会を解散したが、7月の選挙では国王による選挙妨害を乗りこえて270対145で国王反対派が多数を占めたので、召集前に解散命令を出し、選挙結果を無視し、さらに出版に厳重な統制を加えた。このため市民は7月27日にパリにおいて決起し、「栄光の3日間」といわれる戦闘がおこなわれて、国王側は敗北した。革命派内部では共和派と立憲王政派との対立があり、その妥協策として自由主義者として知られていたオルレアン家ルイ=フィリップ Louis-Philippe (位1830〜48)が国王(「フランス国民の王」)となり、やや緩和された制限選挙制の立憲君主政が成立した。これを七月王政という。

二月革命とその意義
フランスでは七月革命以降産業革命が進行して、中小の産業資本家も成長し、労働者による労働運動社会主義運動がおこった。当時のフランスでは有力者が全人口のわずか1%にもおよばない制限選挙であったため、大ブルジョワジーの支配に対する不満が国民の間に高まった。さらにフランスは東方問題における外交上の失敗や政府がさまざまな抑圧をおこなって国民の不満を抑えたので、中小資本家や労働者を中心に選挙法改正の運動が展開された。彼らは革命宴会 Banquer de Réforme という組織を全国的に広め、その支援者の拡大に努めた。この全国大会が1848年2月パリで開催され、全国から運動家が集まって選挙法改正の要求を政府に突きつけた。
ルイ=フィリップの七月王政の風刺画 ©世界の歴史まっぷ

しかし、ギゾー Guizot (1787〜1874 任1847〜48)内閣はこの要求を拒否したため、パリで1848年2月22日暴動が発生した。ルイ=フィリップはギゾー内閣の更迭で事態の打開をはかったが失敗してイギリスに亡命し、臨時政府が樹立された。これを二月革命という(第二共和政の成立)。

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