ユダヤ戦争
The Siege and Destruction of Jerusalem by the Romans Under the Command of Titus, A.D. 70, Oil on canvas, 1850 / David Roberts ©Public Domain

ユダヤ戦争


ユダヤ戦争 (第1次ユダヤ戦争)
紀元1世紀後半と2世紀前半に、ローマ帝国のユダヤ属州に住むユダヤ人が支配に対しておこした反乱。

ユダヤ戦争

紀元1世紀後半と2世紀前半に、ユダヤ人がローマ帝国の支配に対しておこした反乱。

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オリエントと地中海世界

ローマ世界

キリスト教の発展

66年〜70年のユダヤ教徒の反乱(ユダヤ戦争)によって、これに加わらなかったキリスト教徒がユダヤ教徒からいよいよ明瞭に区別されるようになった。しかもキリスト教徒が偶像を拒むだけでなく、人の肉を食べるなどの悪徳にふけるものたちだという噂が一般に信じられていた。こうして異邦人、ことに都市の民衆たちによる迫害が2世紀ころからしばしば生じるようになっていった。

経緯

開戦までの経緯

ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていた。
ヘロデ大王の孫であったアグリッパ1世はローマに滞在中に第3代ローマ帝国皇帝カリグラの知遇を得て、41年には祖父ヘロデ大王が治めた版図と同じ版図(ユダヤ・サマリア・イドマヤ・ガラリヤ)を統治する、ローマ帝国に公認された古代ユダヤの統治者となった。

44年、アグリッパ1世がに病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。

データ

年月日:66年 – 74年
場所イェルサレム、マサダ他
結果:ローマ帝国の勝利
交戦勢力
ローマ帝国 ユダヤ人他
指導者
ウェスパシアヌス
ティトゥス
ルキウス・フラウィウス・シルバ
シモン・バル・ギオラ
ギスカラのヨハネ
エルアザル・ベン・シモン
ヨセフ・ベン・マタティアフ
戦力
70,000名 最大1,100,000とも
損害
不詳ながら市民多数が死亡

開戦

フラウィウス・ヨセフスによると、「ユダヤ戦争」が勃発した発端はカイサリアにおけるユダヤ人の殺害であった。
当時のユダヤ属州総督フロルスがイェルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物を持ち出したことをきっかけにイェルサレムで過激派による暴動が起こった。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ(Simon Bar-Giora)、ギスカラのヨハネ(John of Gischala)、エルアザル・ベン・シモン(Eleazar ben Simon)らと伝えられるが、いずれも強硬派・原理主義者に属した点も事態過激化への呼び水となった。

ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。
主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかったユダヤ人たちは反ローマで結束し、隠遁修行生活をしていたエッセネ派も反乱に加わった。
フロルスはシリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たローマ帝国第5代皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた。

ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、イェルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破してウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、イェルサレムを孤立させることに成功した。

イェルサレム陥落

68年4月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が発端となって、同年6月にネロが自殺。
69年には4人のローマ人が次々と皇帝に即位(「4皇帝の年」)した他、ゲルマニアでガイウス・ユリウス・キウィリスを首謀者とした反ローマの反乱が勃発する等、ローマは大混乱に陥った。
ウェスパシアヌスもイェルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となった。

69年12月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のイェルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。
70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、イェルサレム神殿はユダヤ暦第6月8日、9日、10日に火を放たれて炎上し、イェルサレムは陥落した。
イェルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。このとき、つくられたのがフォロ・ロマーノに今も残るティトゥスの凱旋門である。そこにはイェルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれている。

ユダヤ戦争
ティトゥスの凱旋門-イェルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれている
Source: Wikipedia

マサダの戦い

ユダヤ戦争
ユダヤ砂漠にあるマサダ
Source: Wikipedia
イェルサレムは陥落したが、ギスカラのヨハネら一握りのユダヤ人が、かつてヘロデ大王の築いたヘロディオン、マカイロスやマサダといった各地の砦に立てこもって抵抗を継続した。
中でも約1千人のユダヤ人が籠城したマサダ砦の戦いは、詳細な記録が残されている。マサダは切り立った岩山の上にあり、包囲したローマ軍団の指揮官・ルキウス・フラウィウス・シルバは力攻めは無理と判断し、周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を立てた。
3年がかりで砦の絶壁が埋められ、完成目前となった突入路を見て敗北を覚悟したユダヤ人集団は、ローマ軍の突入前夜に自ら集団自決して玉砕した。
74年(もしくは73年)とされるマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結した。

マサダは2001年に世界遺産の文化遺産「イスラエル」に登録されている。

戦後のユダヤ

この戦争を第1次ユダヤ戦争といい、ローマ帝国ネルウァ=アントニヌス朝第3代皇帝ハドリアヌス治世下の132年から135年にかけて再び勃発したバル・コクバを指導者とする叛乱(バル・コクバの乱)は第2次ユダヤ戦争と称される。
この戦争以後、イェルサレムにローマの一個軍団(第10軍団)が常駐することになった(それまではユダヤ人の民族感情を刺激しないためにカイサリアに駐屯していた)。

ガリラヤ攻略戦でローマに投降したユダヤ側将校のフラウィウス・ヨセフスは、この戦争の経過を詳細に書き残した。これが「ユダヤ戦記」である。戦争の参加者自らの書いた一次史料として貴重な記録であるが、伝わるはずのないマサダ砦の指導者の「最後の演説」などが含まれており、ヨセフスの主観や後世の脚色も多分に含まれているとされる。

バル・コクバの乱を鎮圧したローマ帝国ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。さらにイェルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったものである。現代まで続くパレスティナの名前はここに由来している。

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