ペルシア戦争 ペルシア戦争当時のギリシア地図
ペルシア戦争当時のギリシア地図 ©世界の歴史まっぷ

ペルシア戦争 B.C.500〜B.C.449

 

アケメネス朝ペルシアとギリシアの諸ポリスとのあいだの戦争。3回にわたるペルシア軍の進攻をギリシアが撃退した。前449年カリアスの和約で両国は不可侵を約し、戦争は集結した。

ペルシア戦争

  • アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとのあいだの戦争。イオニアの反乱を契機に、ダレイオス1世が遠征軍を派遣した。前後3回にわたる戦争はアケメネス朝の敗北に終わった。
  • アケメネス朝ペルシアとギリシアの諸ポリスとのあいだの戦争。3回にわたるペルシア軍の進攻をギリシアが撃退した。前449年カリアスの和約で両国は不可侵を約し、戦争は集結した。
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オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

アラム人とフェニキア人

全盛期には彼らの活動範囲は地中海を越えて、大西洋やインド洋にまでおよんでいた。政治的には、紀元前7世紀にアッシリアの攻撃に屈したあと、新バビロニア・アケメネス朝と次々に異民族の支配を受けたが、海上における活動は引き続き活発で、ペルシア戦争時にはフェニキア海軍が活躍した。

アケメネス朝

ダレイオス1世によってひきおこされたギリシア人を相手とするペルシア戦争が、その子クセルクセス1世のとき失敗に終わったにもかかわらず、その後なお1世紀半も帝国が維持されえたのは、この支配体制の巧妙さのためであった。

ギリシア世界

ギリシア文化

紀元前5世紀になると歴史書が現れた。当時知りうる限りの世界中の珍しい風習や言い伝えを集めてペルシア戦争を描いたヘロドトスの『歴史』

アテネ

陶片追放の制度はペルシア戦争後の政治抗争の道具として濫用されて本来の意義を失うことになる。

ペルシア戦争
ペルシア戦争
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ
ギリシアは東方のオリエント諸国とは密接に交流し、そこから多くの影響を受けていた。しかしアケメネス朝ペルシアはしだいに勢力を西方におよぼし、ギリシアとの関係が深かったリディア王国を滅ぼしてついに小アジアのイオニア都市を支配するにいたった。
アケメネス朝ペルシアはギリシア都市に僭主せんしゅ政をもたせようと圧力をかけ、これに反発したイオニア諸市はミレトスの僭主アリスタゴラスの主導のもとに紀元前499年、反乱に立ち上がったがすぐに鎮圧された。
アケメネス朝ペルシアの専制的支配に対して民主政ポリスを擁護しようとの意識を高めたアテネが反乱都市に援軍を送っていたため、アケメネス朝ペルシア第3代王・ダレイオス1世はギリシア侵入に着手した。これがペルシア戦争である。
ペルシア戦争 ペルシア戦争当時のギリシア地図
ペルシア戦争当時のギリシア地図 ©世界の歴史まっぷ
アケメネス朝には、アテネから亡命した僭主のヒッピアスがうけいれられており、ヒッピアスがアケメネス朝ペルシアを後ろ盾にアテネの支配権の奪回をめざしていることもアテネを危惧させた。

最初の遠征は嵐のため失敗し、紀元前490年に第2回の本格的な遠征がおこなわれた。
トラキア、マケドニアを征服したペルシア軍はアッティカのマラトンに上陸した。ミルティアデスが指揮官としてこれを迎え討ち、アテネは1万の重装歩兵軍でペルシア軍を破り、海へ押し戻した。

このときアテネ方に加わったのはプラタイアのみで、スパルタはちょうど宗教祭典のときにあたっていて、軍隊を出すことができなかった。

アケメネス朝ペルシアはアテネ市を攻撃しようとしたがミルティアデスの作戦で撃退され、帰国せざるをえなかった。以後アテネは艦隊の補強とギリシア=ポリス間の同盟関係の強化に努めた。
紀元前480年、ダレイオス1世の後を継いだアケメネス朝ペルシア第4代王・クセルクセス1世は、史上最大といわれる約20万の歩兵を動員してみずから第3回の遠征をおこなった。
ギリシア方ではアルテミシオンの海戦で破れ、陸ではテルモピレーでレオニダス1世以下のスパルタ兵とテスピアイ兵が全員戦死するなど苦戦が続き、アッティカもペルシアが占領した。
アテネのテミストクレスは市民全員を船で避難させ、巧みな作戦でベルシア艦隊をサラミス湾に誘い込んで全滅させた。

このときもアテネはデルフォイの神託をうかがい、「木の砦」で戦えとの支持をえた。テミストクレスはこれを、市民が船で避難することだと主張したのである。
テミストクレスの提案

第3回ペルシア遠征が予測されていた紀元前483年(または482年)に、アッティカのラウレイオン銀山で豊富な銀鉱脈が発見された。一部の市民は市民間に平等に分配することを提案したが、テミストクレスはこれを艦隊建設費に充てるべきだと主張して反対する。アリスティデスを陶片追放にかけ、200隻の三段櫂船を建造した。これがサラミス海戦で活躍することになったのだが、ここで最初に銀を平等に分配するよう提案がなされた点が、民主政アテネの特色をよく表していることに気づかされるであろう。

陸ではプラタイアでスパルタとアテネを中心とするポリス軍が勝利し、さらに北方や小アジアでもペルシアを破ってイオニア都市も独立を回復した。こうしてギリシアは専制帝国との戦争に勝利し、ポリス市民が自由と独立を守ったことを誇りとした。

戦争ののちもペルシアはギリシアを支配しようとの意図を隠さなかった。スパルタの将軍パウサニアスが横暴で他のポリスの怒りをかい、結局スパルタは指揮権を放棄し、アテネの声望が高まった。またペルシアと接する小アジア・エーゲ海にはアテネと同系のイオニア=ポリスが多いこともあって、アテネのアリスティデスが中心となり、対ペルシア海上同盟が結ばれた(紀元前478年)
これははじめ本部をエーゲ海中心のアポロン神殿のあるデロス島においたのでデロス同盟と呼ばれる。これ以後アテネはこの同盟を足がかりとしてエーゲ海全域に支配権を及ぼしていくことになる。

デロス同盟

この同盟はペルシアの脅威からポリスの独立を守る防衛同盟であり、参加ポリス(最大時には約200に達した)はなによりも艦隊と兵員を提供する義務を負った。
それが無理な場合には、貢納金を払うこととされた。アテネの将軍が同盟軍の指揮権をもち、金庫の10人の管財人もすべてアテネ人で、アテネの同盟盟主としての地位は明らかであった。
同盟は実際にトラキアや黒海方面、エジプトに艦隊を送ってペルシア方をおさえようとした。しかしエジプトで敗北し、そのため金庫がアテネに移されて、同盟はしだいにアテネが他ポリスを支配する道具と化していった。ポリスが納める貢納金はアテネへの貢租にひとしくなり、アテネは同盟資金を自分たちのために流用するようになった。同盟市の反抗を許さず、離反したポリスには懲罰を加えた。加盟ポリスにはアテネの貨幣・度量衡を用いることを強制し、ポリス間の紛争はアテネの法廷で裁くこととされた。アテネから各ポリスに駐留軍を送ることもあり、軍事的拠点にアテネの植民市もつくられた。
ペルシアとの間には紀元前449年に最終的な和約が結ばれたが(カリアスの和)、デロス同盟は解散せず、アテネの海上支配はいっそう強化されていった。しばしばこのような体制は「アテネ帝国」と呼ばれる。

ペルシア戦争 が登場する作品

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