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フランス領インドシナ連邦( A.D.1887〜A.D.1945)
コーチシナ(直轄領)・アンナン・カンボジア(保護国)・トンキンを合わせて1887年に成立したフランスの植民地。99年にはラオスも統合され、総督府はハノイに置かれた。

フランス領インドシナ連邦

フランス領インドシナ連邦構成

直轄領コーチシナ
保護国アンナン・カンボジア・ラオス
保護領トンキン(阮朝存続)
  • フランス領インドシナ連邦:コーチシナ・アンナン・トンキン・カンボジアを合わせて1887年に成立したフランスの植民地。99年にはラオスも統合された。総督府はハノイに置かれた。
    • トンキン:ソンコイ川(紅河)流域、ベトナム北部の旧称。16世紀以降、黎朝は南北に分裂し、鄭氏の支配する北部はトンキン王国と呼ばれた。
    • アンナン:唐朝がベトナム北部に設置した安南都護府にちなむベトナムの旧称。フランス領インドシナ時代にはベトナム北部をトンキン、南部をコーチシナ、中部をアンナンと呼んだ。
    • ハノイ:ソンコイ川(紅河)右岸に位置する古都。1831年以降ハノイと呼ばれ、フランスのインドシナ総督府が置かれた。
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アジア諸地域の動揺

南アジア・東南アジアの植民地化

大陸部の植民地化

イギリスとインド経営を争って敗れたフランスは、19世紀半ばのナポレオン3世の時代からインドシナの植民地化を進めた。これよりさき、阮福暎げんふくえい嘉隆帝かりゅうてい)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99) の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスは1858年にスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵し、戦後結んだ第1次サイゴン条約 Saigon (1862)によってキリスト教布教の自由、コーチシナ東部3省と崑崙等の割譲などを認めさせた。

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その後フランスはコーチシナ西部3省にも進出してコーチシナ全土を支配下においた。これ以後コーチシナ(メコン=デルタ)は急速に開拓されて米の大生産地となり、植民地政府と植民地起業家に莫大な富をもたらした。

フランスはさらに北に目を転じて、1874年の第2次サイゴン条約でソンコイ川(紅河)航行権をはじめとする諸権利をえた。しかし阮朝は条約締結後も清朝や、劉永福率いる太平天国の残存勢力「黒旗軍」と結んで反抗したため、フランスは1883年に首都フエ Huế (ユエ)を占領して条約を結ばせ、ベトナムを完全な保護国とした。これを第1次フエ条約あるいはフランスの代表の名をとってアルマン条約 Harmand と呼ぶ。しかしなお北部での抵抗が続いたためフランスは翌年第2次フエ条約(パトノートル条約 Patenôtre )を結ばせ支配権をさらに確実なものとした。一方、ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は、阮朝・フランス間に結ばれた諸条約を承認せず、1884年ついに清・仏両軍の戦いとなった(清仏戦争)。この戦いはフランスの勝利に終わり、翌年結ばれた天津条約で、清朝はベトナムに対するフランスの保護権を認めた。そこでフランスは1887年、直轄地コーチシナ・保護領トンキン・保護国アンナン・カンボジア(1863年保護国化)からなるフランス領インドシナ連邦をつくり、ハノイ(一時サイゴン)に駐在するインドシナ総督の管轄下においた。ついで、1895年以後保護下にあったラオスを連邦に編入している(1899)。

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