シチリア晩祷戦争
シチリア晩祷戦争 (フランチェスコ・アイエツ画/Galleria Nazionale d’Arte Moderna蔵) ©Public Domain

シチリア晩祷戦争


シチリア晩祷戦争

1282年のシャルル・ダンジュー(カルロ1世(シチリア王))に対する「シチリアの晩祷ばんとう」に始まり、1302年のカルタベッロッタの和平で終わった中世ヨーロッパの戦争。
争いは、ローマ教皇より支援を受けたアンジュー家の王位請求者であるシャルル・ダンジューとその息子カルロ2世(ナポリ王)、フィリップ3世(フランス王)並びにその関係者と、ペドロ3世(アラゴン王)をはじめとするアラゴン王家(バルセロナ家)との間で、シチリア、カタルーニャ(アラゴン十字軍)並びに地中海を舞台にして繰り広げられた。

シチリア晩祷戦争

戦争データ

年月日:1282年〜1302年
場所:地中海; 主に シチリア、メッツォジョールノ、アラゴン及びカタルーニャ
結果:シチリア王国がバルセロナ家のトリナクリア王国とアンジュー家のナポリ王国に分離した。
交戦勢力
アラゴン連合王国、トリナクリア王国、東ローマ帝国 アンジュー・ナポリ王国、フランス王国、マヨルカ王国

シチリアの晩祷

シチリアの晩祷は、1282年にシチリアで起こった住民暴動と虐殺事件。シチリアの晩鐘、シチリアの夕べの祈りとも。

概要

当時シチリア王国は、ホーエンシュタウフェン家を断絶させたフランス王族であるアンジュー家のシャルル・ダンジューが支配しており、イタリア系の住民の間には不満が鬱積していた。
また、この時期にシャルル・ダンジューは姻戚関係から滅亡したかつてのラテン帝国の相続権を主張、ローマ教皇とも組んで東ローマ帝国の征服を計画しており住民から強引な食料や家畜の調達などを行い、これが住民の反発を更に強めたと言われる。

1282年3月30日に、アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民の女性に暴行したことに怒った住民が暴徒化した。忽ちのうちに暴動はシチリア全土に拡大し、4000人ものフランス系の住民が虐殺された。また、東ローマ遠征用の艦艇も多数が破壊されたと言われる。この反乱によりシャルルが準備していた遠征計画は大きく狂った。

事件の発生した3月30日は復活祭の翌日に当たる月曜であり、教会前には大勢の市民が晩祷(夕刻の祈り)を行うため集まっていた。彼らが暴動を開始したとき、晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷(晩鐘)」と称されるようになった。

シャルルと親しかったマルティヌス4世(ローマ教皇)は、十字軍の作戦を妨害したとして全島民を破門にするという処置を取った。やがてシャルル側も反撃に出て暴動の鎮圧も時間の問題と思われたが、8月、突如ペドロ3世(アラゴン王国)(シャルルが敗死させたシチリア王マンフレーディの娘婿)がシチリアに上陸。シャルルの軍勢を破り、シチリアの王位に即位した。このシチリア晩祷戦争以後、シチリア王国はペドロ3世のシチリアとシャルル・ダンジューのナポリ王国に分裂していった。

シチリアの晩祷の背景

シチリアの晩祷事件には黒幕がいたとされている。ミカエル8世パレオロゴス(東ローマ皇帝)はアンジュー家による地中海支配を恐れるアラゴン連合王国やイタリア海運都市国家と組み、厳しい軍事物資などの徴発を受けたシチリア住民の反フランス感情を煽る工作活動を行っていた。また、アラゴン王国に対して多額の援助を行いシチリア征服用の艦艇を建造させたとされる。

ミカエル8世パレオロゴス(東ローマ皇帝)はシャルル・ダンジューの東ローマ帝国征服計画阻止に成功したのである。実際ミカエル8世パレオロゴス(東ローマ皇帝)は自伝に「私はシチリア人に自由をもたらす神の道具である」と記している。単にシチリア住民の反乱で片付けられる事の多い事件であり、事件の発生そのものは偶発的なものだが、実は当時の国際情勢が深く関わった事件なのである。

背景

シチリアは、12世紀初頭にルッジェーロ2世(シチリア王)がイタリア本土の豪族を撃破し、ローマ教皇からシチリア王位を授けられて以来、南イタリアをも含んだシチリア王国の一部を成していた。
その統治は神聖ローマ皇帝を兼ねたフェデリーコ(フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝))によって引き継がれたものの、その庶子であるマンフレーディは1266年に、アンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)率いるフランスの侵略を受けて追われた。フランス人による統治はすぐに、抑圧的で残酷な要素を帯びるようになった。

復活最後の月曜日である1282年3月30日、パレルモ郊外に位置する聖霊教会にて夕べの祈り(晩課)の際に、シチリア人女性がフランス人男性から嫌がらせを受けた。嫌がらせの内実がいかなるものだったのか、そのシチリア人女性とフランス人男性が誰だったかについては、報告によって異なる。

このたった一つの出来事がきっかけで、その後6週間にわたって続くことになる、4000人にも上るフランス人大量虐殺に至った。この惨劇は、シチリア国王となっていたシャルル・ダンジューとその配下のフランス人による、現地のシチリア人に対する虐政(特にシャルル自身がシチリアを不在にした時に顕著であった)の産物であった。
わずかに数人の役人がその目立った善政により命を救われ、シャルルはメッシーナを維持することが出来た。しかし、教皇代理オルレアンのエルベールの外交上の失敗により, 4月28日にメッシーナで反乱が起きた。エルベールはマテグリフォンの城に退き、港に繋がれていた十字軍の艦隊は焼き払われた。

ペドロ3世(アラゴン王)は自身の妃コンスタンサの権利を通してマンフレーディの後継者であり、イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・プロチーダがその代理人として行動していた。ジョヴァンニ・ダ・プロチーダはマンフレーディに対して忠実に仕えており、タリアコッツォの戦いでシャルルの支配が確定するとアラゴンに亡命した。
ジョヴァンニ・ダ・プロチーダはシチリアへ赴くと、ペドロ3世が有利になるよう不満を煽り立て、それからコンスタンティノープルに赴いて東ローマ帝国のミカエル8世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝)からの支援の確約を取り付けた。
ミカエル8世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝)はローマ教皇の許可なしでペドロ3世を支援することに対して拒否を示したことから、ジョヴァンニ・ダ・プロチーダはローマに赴いて、シャルル・ダンジューがメッツォジョールノで台頭することを恐れるニコラウス3世(ローマ教皇)からの同意を得た。
ジョヴァンニ・ダ・プロチーダはそれからバルセロナに戻ったが、ニコラウス3世(ローマ教皇)は間もなく死去し、フランス人でシャルル・ダンジューの同盟者であったシモン・ド・ブリオンがマルティヌス4世(ローマ教皇)として新教皇となった。

アラゴン王国のイタリア侵攻

シチリアの晩祷事件の後、シチリア人はすぐにペドロ3世(アラゴン王)のもとに赴いて統治権を譲渡した。ペドロ3世(アラゴン王)自らが指揮をとるアラゴン海軍は、現在のアルジェリア東部に位置するコッロに上陸し、そのもとにはシチリア人からの使節が送られてきた。ペドロ3世(アラゴン王)はシチリア王位につくよう要請され、これを受け入れた。この時、マルティヌス4世(ローマ教皇)はシチリア人共同体を援助することを拒否し、シチリア人反乱者は北イタリアの皇帝派ともども教皇によって破門された。

十字軍への望みを捨てたシャルル・ダンジューは、カラブリアにおいて自軍を掻き集め、メッシーナ付近に上陸して包囲を開始した。シチリアの晩祷事件から4ヶ月後の8月30日、ペドロ3世(アラゴン王)がトラーパニに上陸して即座にパレルモへ進軍し、9月4日にシチリア人からの臣従の誓いを受けてその古くからの特権を認めた。
わずかにパレルモ大司教の不在が戴冠の妨げになっただけであった。シャルル・ダンジューは既にメッシーナを包囲していたが、この時アラゴン軍は初めて彼と出会っている。10月末までにシャルル・ダンジューはシチリア島を立ち退くことを余儀なくされ、それ以来、支配権はイタリア半島本土に限定されることとなった。11月18日にマルティヌス4世(ローマ教皇)はペドロ3世(アラゴン王)を破門し、その王位を剥奪した。

ペドロ3世(アラゴン王)は自身の優位を強調し、1283年2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルル・ダンジューは、ペドロ3世(アラゴン王)のもとに手紙を送って一騎討ちによる紛争の解決を求めた。
ペドロ3世(アラゴン王)はこれを承諾し、シャルル・ダンジューはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘はボルドーにて1月1日に行われることなった。双方共に100人の騎士が同行し、エドワード1世(イングランド王)が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している。
ペドロ3世(アラゴン王)はジョヴァンニ・ダ・プロチーダを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロ3世(アラゴン王)には護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。

ペドロ3世(アラゴン王)とシャルル・ダンジューが決闘による決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督であるルッジェーロ・ディ・ラウリアはペドロ3世(アラゴン王)の代理としてイタリアで戦闘を継続していた。
ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル・ダンジューはボルドーを去ってプロヴァンス伯領に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ王朝の支柱となるナポリへ派遣した。
ルッジェーロはマルタを占領し、同島近くのマルタの戦いでアンジュー伯=プロヴァンス伯艦隊を撃破した。それからナポリ港外においてシャルル・ダンジューの息子で王位継承者であるカルロ2世(ナポリ王)と引き分けている。
ルッジェーロは完全に遠洋に針路をとって、ナポリ湾の海戦でアンジュー海軍を完膚までに破壊した。ルッジェーロはメッシーナにおいてカルロ2世を捕虜とし、42の艦船を拿捕している。シャルル・ダンジューはこの時イタリアに到着していたが、それからすぐ後の1285年に死去した。
シャルル・ダンジューの後継者であるカルロ2世は虜囚の身であり、他方ペドロ3世(アラゴン王)もアラゴン十字軍という新たな脅威に対処しなければならなくなったことから、イタリアにおける争いは両陣営の主導者が不在のまま継続することとなった。

アラゴン十字軍

アラゴン十字軍 – 世界の歴史まっぷ

ナポリ=アラゴン対シチリア

タラスコンの和平により、アラゴンとの戦闘は終わったものの、それから1ヶ月とたたずアルフォンソ3世(アラゴン王)が死去したことは、わずかな影響を与えた。
アルフォンソ3世(アラゴン王)の弟のシチリア国王ジャコモ1世がハイメ2世(アラゴン王)としてアラゴンを相続したことで、二つの王国は統一された。

1295年にハイメ2世は(アラゴン王)アナーニ条約に調印し、それに従う形でシチリアを教皇領に寄進して、時の教皇ボニファティウス8世(ローマ教皇)はそれをシャルル・ダンジューの息子カルロ2世(ナポリ王)に授けた。
しかし、ペドロ3世(アラゴン王)の3男でシチリア摂政であったフェデリーコ2世は条約の黙認を拒絶し、シチリア人によって彼らの国王と宣告された。かくしてアラゴン=シチリアのフェデリーコ2世と、アンジュー=ナポリのシャルル2世との間で新たなる戦闘が起きた。

しかし条約では、戦闘の際にハイメ2世(アラゴン王)にはカルロ2世(ナポリ王)に助力することが義務付けられていたことから、ハイメ2世(アラゴン王)はこれに従う形でカタルーニャから艦隊を送り込み、シチリア沿岸を襲撃してフェデリーコ2世を悩ませた。
フェデリーコは即座に攻撃態勢をとって、1296年にカラブリアに侵攻した。幾つかの塔を包囲し、ナポリの反乱を扇動してトスカーナやロンバルディアの皇帝派と交渉し、教皇に対抗するコロンナ家を援助した。

ハイメ2世(アラゴン王)は1295年に締結された条約の遂行と、和平の実現に非常に熱心であった。かくしてハイメ2世(アラゴン王)は、父に仕えた有能な人物であるジョヴァンニとルッジェーロを支援した。

1299年7月4日にハイメ2世(アラゴン王)はルッジェーロを伴い、自ら艦隊を指揮してオルランド岬の海戦においてフェデリーコ2世を撃破した。
他方、カルロ2世(ナポリ王)の息子でハイメ2世の娘ビオランテと結婚したロベルト1世(ナポリ王)とフィリッポ1世(ターラント公)は、シチリアに上陸してカターニアを占領した。
フィリッポ1世(ターラント公)はトラーパニの包囲に移ったものの、フラコナラの戦いでフェデリーコ2世に敗北して捕虜となった。
カラブリアにおいて、フェデリーコ2世は自身の継承権を高めた。
1300年6月14日にルッジェーロはポンサの戦いでシチリア軍を撃破し、フェデリーコ2世を捕虜とした。

1302年にシャルル(ヴァロワ伯)は、ボニファティウス8世(ローマ教皇)の命によりローマへ赴いた後、シチリアに上陸したものの、その軍勢が疫病によって損害を被ったことから、和平を訴えることを余儀なくされた。
8月19日にカルタベッロッタの和平が結ばれ、フェデリーコ2世は「トリナクリア国王」の称号を帯びたシチリア島全土の王として、シャルル2世は「シチリア国王」の称号(多くの歴史家はその置かれた都から「ナポリ国王」と呼び習わしている)を帯びる南イタリア全土の王として、それぞれ認められた。1303年5月に教皇が条約に批准し、フェデリーコ2世(シチリア王)は彼に貢税を払った。また、フェデリーコ2世(シチリア王)とカルロ2世(ナポリ王)の娘エレオノーラの結婚が執り行われた。

参考 Wikiwand

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