ゴローウニン事件
日露友好の碑(函館市)1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

ゴローウニン事件


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ゴローウニン事件 Golovnin A.D.1811〜
国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローウニンを捕らえ、函館・松前に監禁。報復として翌年ロシアが淡路の商人高田屋嘉兵衛を拘留。1813年、送還された嘉兵衛の尽力と、ロシアの蝦夷地襲撃が政府命令ではないとの釈明もあり、ゴローウニンを釈放。これを機にロシアとの関係は改善された。

ゴローウニン事件

国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローウニンを捕らえ、函館・松前に監禁。これに対し、翌年ロシアが淡路の商人高田屋嘉兵衛たかだやかへえを拘留。1813年、送還された嘉兵衛の尽力と、ロシアの蝦夷地襲撃が政府命令ではないとの釈明もあり、ゴローウニンを釈放。これを機にロシアとの関係は改善された。

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幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近

1807(文化4)年、幕府は松前・蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行をおき、南部・津軽両藩を中心に東北諸藩に警備させた。樺太も直轄にしたがその周回すら不詳のため、1808(文化5)年から翌年にかけて幕府は間宮林蔵(1755-1844)らに探査を命じ、間宮は樺太が島であることを確認するとともに、対岸の沿海州に渡り、清(王朝)の役所があるデレンまで足を踏み入れた。

ロシアとの緊張関係はなお続き、1811(文化8)年、国後くなしり島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニン(Golovnin、1776〜1831)を捕え、箱館ついで松前に監禁した。ロシア側も1812(文化9)年、報復として択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛(1769〜1827)を捕えた。1813(文化10)年にゴローウニンを釈放してゴローウニン事件は解決し、ロシアとの緊張した関係は改善された。しかし、直轄した蝦夷地の経営が予期した成果をあげられず、幕府及び警備を命じられた東北諸藩に重い負担となったことなどから、幕府は1821(文政4)年に蝦夷地を松前家に返還した。

北方探査要図
北方探査要図 ©世界の歴史まっぷ
ゴローウニン事件とフェートン号事件

ディアナ号艦長のゴローウニンは、世界周航の途中、国後島を測量中に幕府役人に捕えられ、2年3カ月間、箱館・松前に監禁された。ロシアも幕府御用商人高田屋嘉兵衛を捕えたが、ロシア側が1813(文化10)年、ロシア軍艦の蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく、出先の軍人が勝手に行ったものであるという文書を日本側に提出し、釈放された。ゴローウニンが著した『日本幽囚記』は、各国で翻訳され、日本に関する新たな知識を提供した。また、ナポレオン時代のフランスと戦っていたイギリスは、当時、フランスの属国となっていたオランダがアジア各地にもっていた拠点を奪おうとしており、その一環としてフェートン号がオランダ商館のある長崎港に侵入したのがこの事件である。いわばイギリスとフランスの戦争の余波であった。

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