イスラーム イスラーム教の特徴
ナスフ体によるコーラン の章句。10世紀に訳されたタバリーの『大タフスィール』ペルシア語版(写本は18世紀のもの)。アラビア語各単語とそれに対応する朱字のナスタアリーク体によるペルシア語の訳文。タフスィールの一種。©Public Domain

イスラーム


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イスラーム (イスラム教)
預言者ムハンマドによって創始されたイスラームは、神(アッラー)への絶対的な帰依を説く一神教である。神からムハンマドに下された啓示を集成したものがイスラームの聖典『コーラン』である。

イスラーム

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム帝国の成立

イスラーム教の特徴

神からムハンマドに下された啓示を集成したものがイスラームの聖典『コーラン(読むべきものの意)』であり、アラビア語で記されている。
その教義の核心は、「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」という信仰告白の言葉によく示されている。つまり、神の唯一性がきわめて明確に表明され、信者には主人であるアッラーに対し、しもべとして絶対的に服従すること(イスラーム)が要求される。したがって、ムハンマドは神からつかわされた使徒であるが、キリスト教とは対象的に預言者に神性はなく、ムハンマドも「市場を歩くただの人間」にすぎないとされる

また、ユダヤ教の神ヤハウェが、選ばれたユダヤの民との間に特別の契約を結ぶのに対して、イスラーム教は血縁的な絆を否定し、すべてのムスリムは同胞としてひとつの共同体(ウンマ(イスラム))を形成するとした。ここに、イスラーム教が世界宗教として発展していくための基本的な原理を見出すことができる。
イスラームの世界的宗教性は、アラブの大征服の結果、さまざまな民族を含む広大な地域がイスラーム帝国の統治下に組み込まれたことにより、歴史的な現実ともなった。これ以後の時代にも、イスラーム教はさらに広い地域へと拡大していく。

「コーラン」には、1日5回の礼拝や断食・喜捨・巡礼などの信仰に関わる事柄ばかりでなく、結婚や離婚、遺産相続、豚肉を食べることの禁止など、社会生活のすべてにわたる規制が述べられている。イスラーム教がせまい意味での宗教にとどまらず、政治・経済・社会・文化など、あらゆる分野の活動にかかわる「生活の体系」として機能するようになったのはそのためである。
日常生活の規範とされたイスラーム法シャリーア)は、『コーラン』と預言者の言行(スンナ)にもとづいて9世紀ころまでに整えられた。立法作業や法の解釈にたずさわったのはウラマーと呼ばれる知識人・学者であり、これ以後、彼らは法学者・裁判官・教師などとして政治的、社会的に重要な役割を演ずるようになる。

『コーラン』
  1. 慈悲ぶかく慈愛あまねきアッラーの御名みなにおいて。
  2. たたえあれアッラー、万有の主。
  3. 慈悲ぶかく慈悲あまねき方。
  4. 審判の日(最後の審判をさす)の支配者。
  5. 我々はあなたを崇め、あなたに助けを求めまつる。
  6. 我々を正しき道に導き給え。
  7. あなたの怒り給うものの道、踏み迷ったものの道ではなく、あなたの御恵みを垂れ給う人々の道に。

参考 〔ー開扉の章メッカ啓示〕

慈悲ぶかく慈愛あまねきアッラーの御名において。

  1. クライシュの安全を願うなら、
  2. 冬と夏の隊商の安全を願うなら、
  3. 彼等をして、この館の主(館はカーバ神殿、館の主はアッラーを意味する)に仕えさせよ。
  4. 飢に対しては彼等に食を与え、恐れに対しては彼等を守り給うた方に。

参考 〔ー〇六クライシュの章メッカ啓示〕

慈悲ぶかく慈愛あまねきアッラーの御名において。

  1. 言え。「彼こそアッラー、唯一の方。
  2. アッラー、永遠の方。
  3. 生まず、生まれず(ムハンマドは、キリスト教徒がイエスを神の子と呼ぶのを非難し、唯一絶対の神は何ものをも生むはずがなく、また何ものからも生まれたはずがないとした。)。
  4. 並ぶもの、何一つなし」と。

参考 〔ーーニ純粋の章メッカ啓示〕(嶋田襄平訳)

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教義

六信と五行

イスラームの信仰の根幹は、六信と五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。
六信は、次の6つである。

  1. 神(アッラー)
  2. 天使(マラーイカ)
  3. 啓典(クトゥブ)
  4. 使徒(ルスル)
  5. 来世(アーヒラ)
  6. 定命(カダル)

このうち、特にイスラームの根本的な教義に関わるものが神(アッラー)と、使徒(ルスル)である。ムスリムは、アッラーが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラームに入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。

また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。

  1. 信仰告白(シャハーダ)
  2. 礼拝(サラー)
  3. 喜捨(ザカート)
  4. 断食(サウム)
  5. 巡礼(ハッジ)

これに、奮闘努力(ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。

これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月(ラマダーン、ラマダン)に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラームの聖地であるサウジアラビアのメッカですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。

カアバ
イスラーム
マスジド・ハラーム (中央がカアバ) Source: Wikipedia

カアバ(كعبة‎ Kaʻba または Kaʻaba)は、サウジアラビアのメッカのマスジド・ハラームの中心部にある建造物で、イスラームにおける最高の聖地とみなされている聖殿である。カアバ神殿(カーバ神殿)とも呼ばれる。カアバの南東角にはイスラームの聖宝である黒石(くろいし)が要石として据えられている。
カアバはもとはイスラーム以前(ジャーヒリーヤ)におけるアラブ人の宗教都市であったメッカの中心をなす神殿であったとされる。
「カアバ(カーバ)」とはアラビア語で「立方体」を意味し、形状はその名の通り立方体に近い。

偶像崇拝の禁止

イスラームにおいては偶像は人間が作ったものにすぎず、神そのものではないから、それを崇拝することは間違えている、として偶像崇拝の禁止が徹底されている。
イスラームは神の唯一性を重視するため、預言者の姿を描く絵画的表現は許されない。 それゆえ、ムスリムが礼拝をおこなうモスクには、他宗教の寺院や聖堂とは異なり、内部には宗教シンボルや聖像など偶像になりうる可能性が存在するあらゆるものがない。ただ、広い空間に絨毯やござが敷き詰められているだけで、人びとはそこでカアバがあるメッカの方角(キブラ)をむいて祈る。モスクには、メッカの方角の壁にミフラーブと呼ばれるアーチ状のくぼみがあり、ムスリムはそれによってメッカの方向を知る。
写本絵画などにおいては、預言者ムハンマドの顔には白布をかけて表現されることが多いが、これも偶像崇拝を禁止するイスラームの教義に由来している。

預言者ムハンマド

「イスラーム」とは、唯一神アッラーへの絶対服従を意味しており、出エジプトの「モーセ」や「イエス・キリスト」も預言者として認めている。ただし、イエスもムハンマドもあくまで人間として考えており、それゆえ、イスラーム暦の元年はムハンマド生誕の年ではなく、西暦622年にメディナにウンマ(イスラーム共同体)ができたヒジュラの年を元年にしている。

信徒間の平等

イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)には信徒間の平等が記されているとする意見があるが、少なくとも『クルアーン』には、「アッラーはもともと男と(女)の間には優劣をお付けになったのだし、金は男が出すのだから、この点で男の方が上に立つべきもの。だから、貞淑な女はひたすら従順に」と、男女不平等を明記する記述もある。イスラーム社会では、他の宗教にみられるような聖職者・僧侶階級をもたない。宗教上の指導者を有するのみである。
現実には、ウマイヤ朝では、シリア総督であったムアーウィヤは、シリア優先主義を採り、アラブ人、特にシリアに移住したアラブ人の優越主義が採られ、アラブ人ムスリムと改宗ムスリム(マワーリー)との税制・待遇面の格差は著しかった。対して、アッバース朝ではその反動から、シュウービーヤという思想が起こり、これはカバーイル(アラブ人)にシュウーブ(ペルシャなどの先進文化地域民)を対比させ、シュウーブの優越を主張したものであった。結果、アラブ人の特権は、廃止された。このように、果たして平等かどうかは、時代によって波がある。また、インド圏のイスラム教徒の間には、アシュラーフ等とするカースト的な慣行が存在しており、平等ではない。

Wikipediaより

イスラーム社会の形成

ムスリムが多数を占めるイスラーム社会は、数世紀間にわたって徐々に形成された。7世紀半ばころまでに、アラブ人の大制服によって広大なイスラーム世界が成立すると、まず商人・職人・知識人などの住む都市部からイスラーム化が始まった。町の中央には、礼拝のためのモスクが建設され、これに付属する尖塔せんとう(ミナレット)からは、1日に5回、人々を礼拝に誘う呼び掛け(アザーン)が聞かれるようになった。古代オリエント世界では耳にすることのなかった、新しい「都市の声」である。

また、モスクに隣接して市場(スーク、バザール)を設けることが、イスラーム都市の一般的な形態であった。これらの市場では、イスラーム教徒ばかりでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒の商人・職人も社会的に重要な役割を演じていた。彼らは、被護民(ズィンミー)として、人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由を認められ、行政や学問の分野で活躍するものも少なくなかった。

生産と消費活動の中心である都市には人口が集中し、9〜10世紀のバグダードは100万、14世紀のカイロはおよそ50万の人口を擁する大都市に発展した。これらの都市に食料を供給したのが、周辺に存在する農村であった。アラブの征服者は、徴税のために農村社会をそのまま温存し、イスラームへの改宗を強制することはなかった。しかし10世紀をすぎることまでには農民の改宗も徐々に進み、やがて農村にもモスクが建設されるようになった。また、都市や農村の周辺では遊牧民が牧畜生活を営み、定住民と密接な関係を保っていたことが西アジア社会の特徴である。彼らは定住民に羊肉や毛織物を供給する一方、政府の力が弱まれば、農民を率いて反乱を起こす危険性を常に備えていた。

金曜日の集団礼拝

イスラーム教徒は、金曜正午になると町の中心部にあるモスクに集まり、メッカにむかって集団礼拝を行なう。これは、人々の連帯意識を育むたいせつな行事であったが、これにさきだっておこなわれる説教(フトバ)も政治的に重要な意味を持っていた。説教のテーマは、信仰の問題、聖戦への参加の呼び掛け、減税の要求などさまざまであったが、説教はときのカリフやスルタンの名においておこなわれ、この名前を削ることは、町の人々が公に反乱を表明したことを意味していたからである。

スーフィズム(神秘主義)

イスラーム教徒には、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・メッカ巡礼の努め(五行)を果たすことが求められる。これらの義務が定められたのにつづいて、9世紀ころにはイスラーム法が整い、さらに哲学や神学の発達によって、イスラーム信仰に関する議論はますます煩瑣はんさなものとなっていった。これに対して、民衆の中から神との間に生き生きとした関係を取り戻そうとする運動がおこってきた。これがイスラームの神秘主義(スーフィズム)である。
神秘主義者たちは、夜、道場に集まり、くりかえし神の名を唱えたり、音楽に合わせて踊るなどの修行をつうじて、神との一体感をえることに努めた。12世紀以降になると、その指導者(聖者)を中心にして各地に神秘主義教団(タリーカ)が結成され、教団員の活動は都市の下層民や農民の改宗をうながす結果をもたらした。また彼らは、中国や中央アジア、アフリカ、インド、東南アジアなどにも進出し、各地の習俗を取り入れながら民衆の間にイスラームを広めていった。

産業と経済

通貨とムスリム商人

西アジアを中心に広大な領域を支配したイスラーム国家は、東ローマ帝国の金貨とササン朝の銀貨を継承し、ディナール金貨とディルハム銀貨を正式な流通貨幣とする二本位制を定めた。ウマイヤ朝やアッバース朝時代には、ヌビアやアフリカ内陸部で産出する金とイラン東部からもたらされる銀を用いて純度の高い貨幣が鋳造され、遠距離貿易の取引に広く用いられた。またアッバース朝時代になると、為替手形(スフタジャ)や小切手(チェック、サック)などを用いて取り引きする手形決済の方法も発達した。
広大なイスラーム経済圏の出現と各地を結ぶ交通路の整備は、商品経済の発達を促し、貨幣の流通はいちだんとさかんになった。政府は都市や農村から貨幣と現物の2本立てで租税を徴収し、官僚や軍隊には予算に基づいて現金俸給(アター)を支払った。このような支払い方法は高度に発達した貨幣経済を基礎にして初めて可能だったのである。

商品経済の発展につれて、各地の手工業生産も活発となった。エジプトの亜麻織物、ダマスクスやモスルの綿織物、絹織物、バグダードやサマルカンドの貴金属、紙、ガラス製品、イラン・イラク地方の絨毯など各種の特産物が、イスラーム世界ばかりでなく、東ローマ帝国や西ヨーロッパに向けて輸出された。これに対してイスラーム教徒の商人は、中国の絹織物、陶磁器、インドや東南アジアの香辛料、ロシアの毛皮、奴隷、東ローマ帝国の絹織物、西ヨーロッパの木材、鉄、アフリカの金、奴隷などをイスラーム世界にもたらした。
こうして8世紀の半ば以降、遠距離貿易による外国商品と農村からの原料や食料は都市に集中し、これらの経済活動を支える商品は都市社会の富裕階級を形成するようになった。彼らは交易によって獲得した利潤を私領地経営に注ぎ込み、綿・稲・砂糖キビなど商品作物の栽培を精力的に推し進めた。またこれらの商人たちは、イスラームの倫理に基づいて富の社会的還元をはかることも忘れなかった。各地の都市には商人の寄進によってモスクや学院(マドラサ)が建設され、彼らはイスラーム文化の保護者としての役割を果たしたのである。

イスラーム社会の町づくり

イスラーム社会の町づくりは、カリフやスルタン、高級官僚、軍人、商人など富裕者による寄進(ワクフ)によっておこなわれた。寄進の行為と寄進された農地や店舗などをともにワクフという。これらの富裕者は、みずからの財産を寄進してモスク、学院、病院、隊商宿(ハーン)、神秘主義者(スーフィズム)の道場(ハーンカーまたはザーウィヤ)などを建設し、また建設後の管理、維持費も同じくワクフ収入からまかなわれた。

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