アーヤーン


アーヤーン ayan

ムスリム社会における地方有力者。とくに18世紀以降のオスマン帝国では、徴税請負権を握り、治安維持を含めた地方社会の実質的な支配者となった。彼らの台頭はオスマン帝国の中央権力が弱体化する要因となった。

アーヤーン

  • ムスリム社会における地方有力者。とくに18世紀以降のオスマン帝国では、徴税請負権を握り、治安維持を含めた地方社会の実質的な支配者となった。彼らの台頭はオスマン帝国の中央権力が弱体化する要因となった。
  • 徴税請負などで富を蓄えた地方の有力者。私兵を抱えるなど自立化し、オスマン帝国の支配を弱体化させる要因となった。
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アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

オスマン帝国支配の動揺

西アジアの動向 オスマン帝国

オスマン帝国
1683第2次ウィーン包囲失敗
1699カルロヴィッツ条約(対オーストラリア)
1716トルコ=オーストリア戦争(〜18)
1718パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30)
1744頃ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド
1768第1次ロシア=トルコ戦争(〜74)
1774キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア)
1787第2次ロシア=トルコ戦争(〜92)
1792ヤッシー条約(対ロシア)
1821ギリシア独立戦争(〜29)
1826イェニチェリを全廃
1827ナヴァリノの海戦
1829アドリアノープル条約(対ロシア)
1830フランス、アルジェリアを占領
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1833ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア)
1838イギリス=トルコ通商条約
1839ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1853クリミア戦争(〜56)
1856パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア)
1865新オスマン人協会結成
1876ミドハト憲法発布
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)
1878アブデュル=ハミト2世、憲法を停止
1878サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う
1881フランス、チュニジアを保護国化
1881スーダンでマフディー派の抵抗(〜98)
参考:山川 詳説世界史図録
オスマン帝国の弱体化の原因は、繁栄を支えた中央集権体制の緩みにあった。第1には、スルタンが、遠征をはじめ軍務・政務に直接たずさわらなくなりハレム の皇后や宦官が国政に介入し、大宰相をはじめとする官僚の間には、賄賂・コネ・奢侈しゃしなどの悪弊が横行した。このような状態は「魚は頭から腐る」というトルコの諺によく示されている。第2は、火器の需要がますます高まり、イェニチェリ yeniceri (歩兵軍団員)の数は16世紀の1万から4万に増大し、逆に地方のシパーヒー sipahi (騎士)は度重なる遠征の負担に耐えきれずティマール timar (封土)を手放すものが増え、ティマール制の機能は低下した。第3に、このことは軍事制度の問題にとどまらず、財政を圧迫し、地方の行政・財務機構の変化をもたらした。政府はティマール制にかわり、税の徴収を請負制(イルティザーム iltizam) にきりかえることによって、財政の改善をはかった。徴税請負人は農民や遊牧民に対ししばしば過酷な徴税をおこない、徴税権の終身請負や世襲によって、富を蓄積した。さらにチフトリキと呼ばれる大土地を所有し、小作人や農業労働者を用いて市場向けの商品作物の栽培・経営をおこなうものも現れた。18世紀には、バルカン・アナトリア・シリアの各地に、このようなかたちで富を蓄積し、地方の官職を握る有力家計が形成された。地方の社会秩序は、これらの名士(アーヤーン ayan)によって維持される反面、政府と土地名士、あるいは名士間の争いも激しくなっていった。

ハレム:家屋内の女性専用の居室をさし、夫とその親族以外の成人男性の出入りは禁止された。

徴税請負制(イルティザーム):オスマン政府は各種の徴税権をイスタンブルで競売し、落札したものは税額を前払いして徴税権を得た。

オスマン帝国の改革

1792年のロシア=トルコ戦争の敗北によって、クリミア半島を奪われると、スルタン・セリム3世 Selim III (位1789〜1807)は、「新制」と呼ばれる改革案を発表し、西欧式の新軍団を設置し、その財源にあてるため、アーヤーン ayan (名士層)から徴税請負権を没収しようとした。これに対し、既得権の侵害を恐れたイェニチェリ軍団は、マフムト2世 Mahmut II (位1808〜39)を擁立し、アーヤーン勢力の削減に努めた。1862年には、イスタンブル市民の支持を背景にイェニチェリ軍団を解散して西欧式の常備軍団を編成し、イェニチェリ軍団と深い関係を持っていたベクタシュ教団を閉鎖した(①イェニチェリ軍団の解体)。また西欧の技術の習得のための各種学校を開設し、大宰相の権限を分散し、スルタンへの権力集中をはかった。このような改革は、西欧化によってヨーロッパ諸国の圧力をかわし、内部的にはスルタンの権力集中をはかるものであった。

改革は、地方では徴税請負権をもつアーヤーンなどの抵抗にあって実施されず、また改革の不徹底は、バルカンの非ムスリムの不満の種となり、ブルガリアなどで民族蜂起がおこった。ロシアは、帝国内のギリシア正教徒の保護を口実にクリミア戦争をおこし(1853)、オスマン帝国は英・仏らの支援をうけて勝利をえたが、パリ条約(1856)の締結にあたって、いっそうの改革を約束させられた。56年の改革勅令では、非ムスリム住民の諸権利が細かく保証され、土地法(1856)・民法(1869〜76)などの法制改革が進んだ。

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