アヴィニョン捕囚 アヴィニョン教皇庁
アヴィニョン教皇庁 ©Public domain

アヴィニョン捕囚


アヴィニョン捕囚教皇のバビロン捕囚) A.D.1309〜A.D.1377

キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年〜1377年)アヴィニョン教皇 (Avignon Papacy) 時代を指す。日本語では、アヴィニョン法王と表記されることもある。古代のバビロン捕囚になぞらえ、教皇のバビロン捕囚とも呼ばれた。

アヴィニョン捕囚

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

教会勢力の衰微

13世紀末にでたボニファテゥウス8世(ローマ教皇)(位1294〜1303)は、国家に対する教会の優位と教皇権の絶対性を主張したが、王権の伸張という現実により打ち砕かれた(アナーニ事件 1303)。

ボニファティウス8世とアナーニ事件

ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥しょくゆう(罪の許し)を与えることを宣言。さらに1302年には教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」で教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示した。また、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス国王)と対立した。だが、今やカノッサ事件の時とは、時代も状況も異なっていた。いち早く三部会を開いて(1302)その支持を取り付けたフィリップにより、1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁されてしまった。いわゆるアナーニ事件である。教皇は即座に関係者を破門したが効果なく、屈辱のうちにまもなく没した。その後、フィリップは新しい教皇に圧力を加えて、1302年の教書の撤回とアナーニ事件関係者の赦免を認めさせた。

その後ボルドー出身のクレメンス5世(ローマ教皇)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後7代約70年にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれることになった。これを、古代のユダヤ人の苦難になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜1377)という。
1378年、教皇庁はグレゴリウス11世(ローマ教皇)によりローマに戻されたが、彼の死後、新教皇にイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が選出されると、フランス人の枢機卿は対立教皇クレメンス7世(対立教皇)をたて、アヴィニョンに再び教皇庁を設置した。フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなどはアヴィニョン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持したため、ここに教会大分裂大シスマ 1378〜1417)は決定的となり、教皇の権威は失墜した。

教会勢力の衰微 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

概要

1303年にフランス王フィリップ4世(端麗王)と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件。教皇は直後に病死)が起こった。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。

フランス人枢機卿すうききょうベルトラン・ド・ゴがクレメンス5世になると、フィリップ4世の要請を受け、1308年に教皇庁がアヴィニョン(南フランス)に移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに座所を定めた。アナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、イタリアは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって侵略された(1310年 – 1313年)ため、教皇はイタリアに帰れず、フランス国内に滞在せざるを得なかった。

当時のアヴィニョンはフランス王家・カペー家の領内ではなくプロヴァンス伯領で、ナポリ王家であるアンジュー=シチリア家(カペー家分家)の所領であった。アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、教皇は全てフランス人である。1348年、クレメンス6世はナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョンを買収、教皇領に組み入れた(フランス革命で没収)。

当時のアヴィニョンは田舎同然の地であり、教皇庁という巨大な官僚機構、すなわち数千もの新たな住民が流入したことは、地元のインフラにとって大きな負担となった。

イタリア人の人文主義者ペトラルカがアヴィニョンに滞在しており、クレメンス6世からは聖職位や使節の地位を与えられたが、教皇庁の腐敗ぶりやローマを見捨てていることに憤りを感じていた。教皇にたびたびローマ帰還を訴え、詩や書簡の中でアヴィニョンを「西方のバビロン」と呼んでいる。また、当地の状況についても以下のように書き残している。

現存する〔都市の〕なかで、最も陰気で、人口過密で、治安が悪く、世界の汚いものがすべて集まったゴミ溜めのようだ。鼻が曲がりそうな悪臭に満ちた路地、いやらしい豚と唸り声をあげる犬……壁が揺れるほどの車輪の騒音、荷車一台で塞がれてしまう曲がりくねった通り。これらに対する吐き気を催すほどの嫌悪感は、とても言葉にできない。あまりにも雑多な人種、見るも哀れな乞食、鼻持ちならない金持ち連中!

アヴィニョン捕囚期の教皇

  • クレメンス5世(ローマ教皇)(1305年 – 1314年)
  • ヨハネス22世(ローマ教皇)(1316年 – 1334年)
  • ベネディクトゥス12世(ローマ教皇)(1334年 – 1342年)
  • クレメンス6世(ローマ教皇)(1342年 – 1352年)
  • インノケンティウス6世(ローマ教皇)(1352年 – 1362年)
  • ウルバヌス5世(ローマ教皇)(1362年 – 1370年)
  • グレゴリウス11世(ローマ教皇)(1370年 – 1378年)

参考 Wikipedia

世界遺産「アヴィニョン歴史地区」

事実上の「キリスト教界の首都」となったアヴィニョンには、教皇庁宮殿、現在はフラ・アンジェリコやボッティチェリの「聖母子」を収蔵するプティ・パレ美術館として利用されている大司教館など、当時の建築が数多く残り、そのあたりの地区はアヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録された。

Historic Centre of Avignon: Papal Palace, Episcopal Ensemble and Avignon Bridge – UNESCO World Heritage Centre

アヴィニョンの場所

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