アレクサンドロス3世 アレクサンドロス大王
アレクサンドロス3世 (ナポリ国立考古学博物館蔵 モザイク拡大) ©Berthold Werner

アレクサンドロス大王 (アレクサンドロス3世) Alexandros B.C.356〜B.C.323
マケドニア王(在位前336〜前323)。東方遠征をおこないアケメネス朝を滅ぼした。死後、帝国は、その武将たちによって分割された。

アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

マケドニア王(在位前336〜前323)。東方遠征をおこないアケメネス朝を滅ぼした。死後、帝国は、その武将たちによって分割された。

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王として、大軍の指揮官として

「彼の企てに不可能なことは何ひとつない」

アレクサンドロス大王が語ったとされる言葉

「大王」として知られるマケドニア王アレクサンドロスは、遠征開始から10年たらずで、ギリシアから北インドまで広がる史上屈指の大帝国をつくりあげた。彼の東征は、父フィリッポス2世の征服事業の上になしとげられた。マケドニアをギリシア世界の盟主の地位に押しあげたのはフィリッポス2世である。彼がつくりあげた重曹騎兵と長槍歩兵からなる軍隊が、アレクサンドロスの帝国建設に動員された。

アレクサンドロスは幼少年期から、フィリッポスの子供たちの中で次代の王に最もふさわしいと見られていた。紀元前340年のフィリッポスのビザンティウム遠征の際には、彼がマケドニアで王の代理をつとめ、王の印章を管理した。前338年、18歳のアレクサンドロスはカイロネイアの戦いで奇兵隊突撃の先陣を切り、戦場での勇敢さと手腕を発揮した。勇名をとどろかせていたテーベの精鋭歩兵部隊の神聖隊は、この戦いで壊滅させられた。

しかし、彼の王位継承は安泰ではなかった。王位は長子がつぐとは限らなかったし、フィリッポスには何人もの妻がいた。アレクサンドロスの母オリュンピアスが、王のもうひとりの妻の子が王位をつげるほど成長する前に、フィリッポスの暗殺を試みたのではないかとも言われる。アレクサンドロスは実際、父が亡くなるや王位を確保するために容赦なくふるまい、彼の権威をおびやかす者を宮廷で見境なく抹殺した。

英雄の野望

前334年、アレクサンドロスは軍隊をひきいて、ヨーロッパと小アジアをへだてるヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を越え、小アジアでペルシアの支配下にあったギリシア諸都市を解放した。このとき彼は、かつて父が描いた構想をほぼ実現したことになる。しかし彼はさらに征服を続け、驚異的な大遠征を行った。それは彼自身の野望にほかならなかった。アレクサンドロスはみずからを、父方の系譜ではギリシア神話の英雄ヘラクレスの子孫、母方の系譜ではトロイア戦争の伝説的な英雄アキレウスの子孫とみなしていた。彼が小アジアに渡ってまず行ったことのひとつは、自らの先祖を称えてトロイアに詣でることだった。

アレクサンドロスのこうした信念は、後にエジプトで、砂漠の中のアメン神殿の神官から「ゼウスの子」という神託を受け、さらに強められた。ギリシアの神々の王であるゼウスは、マケドニア王家の祖先とされていた。アレクサンドロスはみずからを神々に選ばれた運命の英雄として思い描くことで、容赦ない征服の道を突き進んでいった。

大軍の指揮官

アレクサンドロスの軍隊は、卓越した戦士である彼に身を投げうって従った。精鋭の騎兵隊ヘタイロイ(原義は「友」)はかたい結束をほこり、彼はこの集団の指導者として、戦闘だけでなく食事や酒席もともにした。戦場では最前線で指揮をとり、騎兵隊の突撃では率先して一番槍をつとめたし、都市の包囲攻撃ではしばしば真っ先に城壁に向かって突進した。

数でまさるペルシア軍に対して決定的な勝利をおさめたイッソスの戦いガウガメラの戦いでは、一見手ごわそうな敵の弱点を見抜く眼力や、ここぞというときの突撃に賭ける闘争本能が、いかんなく発揮された。アレクサンドロスの果てしない野望は、前330年に強大なペルシア帝国を征服したにもかかわらず、遠征を中断しなかったところに如実に現れている。彼は戦いを続行し、ペルシア全領土の支配を強化するとともに、インドに向けて軍を進めた。

ペルシアの影響

アレクサンドロスはみずからを、武力によるギリシア文明の伝播者と任じていた。彼は多くのギリシア人植民市(中でも有名なのはエジプトのアレクサンドリア)を建設する一方、征服したペルシア人をギリシア化しようとした。しかし、彼がペルシア帝国の衣装をまとったことは、マケドニア人たちとのあいだに軋轢を生んだ。ペルシアの伝統的な宮廷儀礼は、彼らにはなじめないものだった。新参のペルシア人がアレクサンドロスの愛顧を得たことも、歴戦のマケドニア人たちにはうとましかった。アレクサンドロスが一連の謀反を激しく圧殺したことで、不満は頂点に達した。

彼はその名を古代世界にかつてない規模でとどろかせたが、創造的な遺産は何も残さなかった。彼は前323年、後継者を残すことなく32歳で病没した。

神としてのアレクサンドロス
アレクサンドロス大王
アレクサンドロス大王のコイン/ 古代オリエント博物館蔵 ©世界の歴史まっぷ
この銀貨では、アレクサンドロスが頭にライオンの皮を被り、神であるヘラクレスになぞらえられている。彼をエジプトの最高神アメンにたとえ、頭に角を生やした像を彫った貨幣もある。神々と密接なつながりがあるとされ、フィリッポスよりヘラクレスが父だと思われていたアレクサンドロスは、自分は天命をさずかっているという思いを強めていった。ある資料によれば、アレクサンドロスはペルシアでの宴会で神々の衣装をまとって現れたという。アレクサンドロス=神という伝説が広く受け入れられ、彼を祀った神殿も建てられた。
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同義語
アレクサンドロス3世

同時代の人物

稲作の始まり

福岡市の板付遺跡は縄文末期から弥生初期の遺跡で、水田跡から人の足跡や炭化米が発見されていることから、水稲栽培が行われていたことを実証する遺跡として知られている。

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