蒋介石
蒋介石 ©Public domain

蒋介石


蒋介石しょう かいせき (蔣介石) 1887年10月31日-1975年4月5日。中華民国第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。

名前

名は中正で、介石は字。譜名は周泰、原名は瑞元。学校では志清とも呼んだ。日本・中国本土では蔣介石の呼び名で知られているが、台湾一帯では蔣中正(チアン・チョンチョン、蔣中正)の名称が一般的。
「介石」は最初は雑誌『軍声』上で筆名として使っていたが、後に字になった。
英語ではChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と呼ばれるが、Kai-shek は「介石」の広東語での発音に由来する。 欧米のメディアからは大元帥を意味するGeneralissimoとも呼ばれていた。

年譜

[以下随時更新中]

1887年、清国の浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。
父は塩商人の蒋肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、蔣介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んだ。実家は裕福であったが、父は蔣が9歳のときに亡くなった後は母子家庭となり暮らしは厳しいものであった。
1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学ぶ。
1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 – 1905年)。
英語、数学、西洋法律を学ぶ。
1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
4月に東京振武学校で学ぶため渡日するが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されず、帰国して保定陸軍軍官学校で学ぶ。この渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。
1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。
1909年、大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校( – 1911年)
1910年、蒋経国誕生
(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)
1911年 – 1912年、辛亥革命に参加。
陳其美と行動を共にし、蒋介石は陳の厚い信頼を得て、陳と義兄弟の契りを結ぶ。
1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。
2月12日に宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥の袁世凱(えんせいがい)に譲るなど、政局は大きく転換した。
この時期の蒋介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から12月まで日本に赴き、東京で言論活動を行った。中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌を出版していたが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。蒋介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題である、と説いていた。
1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成する。
国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。
第二革命と日本への亡命
宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした。
中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蒋介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蒋介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蒋介石が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についてしまったため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蒋介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。
1913年12月1日、孫文は浩然廬を開校する。
孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蒋介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となってしまった。
1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。
この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた。蒋介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蒋介石は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蒋介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日に第一次世界大戦が起きると、蒋介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省(とうさんしょう)での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蒋介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。
1916年6月6日、袁世凱が病没。
1923年、孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。
1924年、広州の黄埔軍官学校校長に就任。
1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。
1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。
1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。
9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談し、北伐(中国大陸統一)・対共戦に対する支援の見返りに満州における日本の政治、経済的な権益に関する特殊な地位を考慮すると語った。
南京事件
蒋介石率いる国民革命軍が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件(南京事件)が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる。
蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では一転して日本を「倭寇」と表記し終始蔑んでいた。
1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
1931年、柳条湖事件で日本の関東軍による満州事変が勃発。
1932年、満州国建国。中国は国際連盟に提訴。
蒋介石は国共内戦があったために建国された満州国を黙認した。蒋介石はそのまま積極的に抵抗せず、国共内戦を優先した。
日本の外交官の広田弘毅や有田八郎、川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが蒋介石はこれを受け入れず、西安事件で日中の防共協定は破綻になった。
1933年、塘沽停戦協定締結。
1935年3月30日、中華民国特級上将に叙される。
1936年、3月、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談。
12月、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。
1937年(民国26年)、7月盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。
日中戦争がはじまる。第二次上海事変で全面戦争に突入する。
「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例え、当初は国共内戦での勝利を優先していた。
12月、日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。
1938年、トラウトマン工作の吊り上げにより和平破綻。トラウトマン工作打ち切りで、泥沼化。
1940年、桐工作で板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されたが、蒋介石は出席せず。
1941年、7月に日本をABCD包囲陣で経済封鎖。11月にハルノートが出される。
12月、日本が対英米と戦争状態になることで日米が第二次世界大戦に参戦。蒋介石は連合国 共同宣言に署名し、中華民国が四大国の一員となる。
1942年、スティルウェルが中国戦区連合国 軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任する。
1943年、繆斌と対日単独講和を検討。
11月、ルーズベルトの要請でカイロ会談に参加され、四人の警察官構想の一員になる。これにより台湾や満州の返還が約束された。
1944年、日本陸軍最大の攻勢大陸打通作戦によって蒋介石の国民党軍が大打撃を受ける。
10月、スティルウェルを参謀長から解任する。
1945年、抗日戦争(日中戦争)に終戦。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。
1946年、国共内戦に突入する。
1948年、中華民国の初代総統に就任
反発を受け翌年辞任
1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる。
1950年3月、再び総統に就任
第五任(第5期)まで務め任期中に死去
1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。
1972年、6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現す事はなくなってしまった。
1975年4月5日23時50分、死去。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる。87歳没。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。
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