治外法権
A hearing of the International Mixed Court at Shanghai, c. 1905 (WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

治外法権

外国人が滞在国の裁判権、行政権に服することをまぬがれる権利。安政の五カ国条約では、治外法権の一つである領事裁判権(在留外国人の裁判をその本国の領事が行う権利)が認められ、日本の国権が侵害された。1899年の条約改正で撤廃される。

治外法権

外国人が滞在国の裁判権、行政権に服することをまぬがれる権利。

参考 世界史用語集

外国人が現にいる国の統治権からまぬがれる特権。安政の五カ国条約では、治外法権の一つである領事裁判権(在留外国人の裁判をその本国の領事が行う権利)が認められ、日本の国権が侵害された。1899年の条約改正で撤廃される。

参考 日本史用語集―A・B共用

アジア諸地域の繁栄

トルコ世界とイラン世界

オスマン帝国下の社会

オスマン政府は、関税など財政収入をえる意味でも、また首都イスタンブルヘの穀物をはじめとする必需品を確保する意味でも、貿易を保護・奨励し、ギリシア人・アルメニア人・ユダヤ教徒などの領内の少数民族の商人に特権を与え、16世紀以降フランス ・イギリス・オランダなどの諸国に対しては領事裁判権を含む通商特権を認めた条約(カピチュレーション capitulations)を結んだ。

カピチュレーション:そもそもスルタンからの恩恵的な特権授与として始まったが、19世紀以降欧米諸国は、優越した軍事力を背景に、中東はもとより中国・日本などに対し治外法権などの特権を含む不平等条約の締結を要求した。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

カージャール朝とアフガニスタン

19世紀以降は帝政ロシアが南下政策をとり、カフカスや中央アジアへの領土拡大をねらっていた。1810年にまずグルジアを併合し、カージャール朝はこれを奪回しようと遠征軍を送ったが敗北し(第1次イラン=ロシア戦争)、ゴレスターン条約 Golestan (1813)によって北アゼルバイジャンを譲った。1826年に再度カフカスに遠征しロシアと戦ったが、これに敗れ(第2次イラン=ロシア戦争)、トルコマンチャーイ条約 Torkomanchay (1828)によってアルメニアを失い、さらに治外法権と市場の開放を認めた。東方ではアフガニスタンをめぐってイギリスと衝突し、1841年の講和でロシアと同様の不平等条約を結ばされ、56年にはヘラートを攻撃したが、イギリスに阻まれた。

東アジアの激動

ロシアの東方進出

ロシアは、イラン(カージャール朝)にも早くから圧迫を加え、カフカス地方の領土を奪ったほか、前述のように、1828年にはトルコマンチャーイ条約によってアルメニアを獲得し、イラン国内におけるロシア人の治外法権を認めさせている。

アヘン戦争(中国の近代の起点)

このようなアヘンの吸飲や密輸入の害を憂慮した道光帝どうこうてい(位1821〜50)は、アヘンの輸入・販売・吸飲の禁絶をめざし、1838年アヘン厳禁論を唱える林則徐りんそくじょ(1785〜1850)を欽差大臣に任命して、アヘン問題の解決にあたらせた。翌年、広州に着任した林則徐は、アヘン約2万箱を没収して焼却したうえ、イギリスに対し、アヘン貿易を停止しないかぎり一般貿易をも断絶するという強硬策にふみきった。しかし、イギリスにとっては、英領インド植民地において、アヘンからの収益金がその歳入の約6分の1を占め、インド農民にもイギリス製綿製品に対する購買力を与えるなど、アヘンはすでにイギリスの世界貿易体制の不可欠の一環となっており、また、1834年にはイギリス東インド会社の中国貿易独占権が廃止され、中国に対する貿易自由化の要求がいよいよ高まっていた矢先でもあった。そこでイギリスは、これを機会に武力によって自由貿易そのものを実現させようとして、1840年、中国に遠征軍を送ってアヘン戦争(1840〜42)をおこした。戦争は近代的兵器を有するイギリス軍の圧倒的な優勢に終始し、北上したイギリス艦隊が北京の外港である天津に迫ったため、道光帝は動揺して林則徐を罷免し、外交交渉による停戦をはかろうとした。この結果、1842年に南京条約が締結されて、アヘン戦争は終結した。この間、1841年に広州郊外の三元里さんげんりにおいて、イギリス兵の暴行に憤激した民衆が、平英団へいえいだんという武装自衛団を組織してイギリス軍を攻撃するという事件(三元里事件)がおきた。これは中国民衆の民族主義的な意識の芽ばえと、その後の民族主義的な排外・抵抗運動の出発点として注目される。

南京条約では、以下が約された。

  1. 香港島の割譲
  2. 上海・寧波・福州・厦門アモイ・広州の5港開港
  3. 公行の廃止による完全な自由貿易化、
  4. 賠償金2100万ドルの支払い

さらに翌1843年には虎門寨追加条約こもんさいついかじょうやくが結ばれた。これは、以下の内容とする不平等条約であった。

  1. 領事裁判権(治外法権)
  2. 協定関税(関税自主権の喪失)
  3. 最恵国待遇さいけいこくたいぐう片務的へんむてき最恵国待遇)

清朝は、1844年にアメリカと望厦条約ぼうかじょうやく、フランスと黄埔条約こうほじょうやくを結んで、翌1845年イギリスは最初の租界そかいを上海に設置した。こうして南京条約以降、中国は主権の一部を失った不平等条約のもとで欧米列強の激しい進出にさらされ、いわゆる半植民地化の道をたどることとなった。

明治維新(世界史)

老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した 。さらに初代アメリカ領事として着任したハリス Harris (1804〜78)が将軍に謁見して開国を求めると、アロー戦争の経過に強い衝撃をうけていた幕府は、大老井伊直弼(1815〜60)の主導下に、1858年、日米修好通商条約を締結した。ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも同様の条約(安政五カ国条約)を結んで開港を断行した。これらの条約は、開港場の増加のほか、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の喪失などを内容とする不平等条約であった。この条約は中国の南京条約・北京条約のような敗戦による条約ではなかったため、賠償金支払いや領土の割譲はなく、アヘンも禁輸とされるなど、中国に比べれば不平等性は弱かった。

参考

launch 詳説世界史研究

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