東方問題 Eastern Question オスマン帝国の領土・民族問題をめぐるヨーロッパ列強間の外交問題の総称。主に、1820年代のギリシア独立戦争から70年代のロシア=トルコ戦争までの一連の出来事をさす。

東方問題

オスマン帝国の領土・民族問題をめぐるヨーロッパ列強間の外交問題の総称。主に、1820年代のギリシア独立戦争から70年代のロシア=トルコ戦争までの一連の出来事をさす。

参考 世界史用語集

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

二月革命とその意義
フランスは東方問題における外交上の失敗や政府がさまざまな抑圧をおこなって国民の不満を抑えたので、中小資本家や労働者を中心に選挙法改正の運動が展開された。

ヨーロッパの再編

新たな国際関係の展開
19世紀後半に入ると、新たな国際関係が展開された。その端緒は東方問題と関連するクリミア戦争(1853〜56)であった。この戦争でロシアが聖地管理権問題などの要因によってオスマン帝国に開戦したのに対して、ロシアの南下政策に警戒心をもつイギリスと威光拡大をめざすナポレオン3世が共同してロシアと対峙した。ロシアは苦境に陥り、ウィーン体制確立以来盟友関係にあったオーストリアに支援を期待した。しかし、メッテルニヒ失脚のあとのオーストリアは、ロシアとの友好よりも自国の利害を優先する政治を進めていた。すなわち、バルカン半島進出を視野に入れたオーストリアはロシアの南下政策に対して警戒心をもち、クリミア戦争では中立を決めこみ、軍隊をロシアとの国境に集結させて牽制し、講和をしなければロシアを敵として参戦すると威嚇した。孤立したロシアはオーストリアの離反に反発し、ロシアとオーストリア両国を軸に展開した国際反動体制が崩壊した。
東方問題とロシアの南下政策
クリミア戦争時のバルカン半島情勢地図
クリミア戦争時のバルカン半島情勢地図 ©世界の歴史まっぷ

エルサレム聖地管理権問題などを要因におこったクリミア戦争(1853〜56)でロシアは敗北した。パリ条約(1856)で、黒海の中立化が定められ、ロンドン条約(1840)が再確認され、ロシアの黒海周辺における南下政策は挫折した。

1878年時のバルカン半島地図
1878年(サン=ステファノ条約)時のバルカン半島地図 ©世界の歴史まっぷ

セルビア・モンテネグロ・ブルガリアなどの地は南スラヴ系民族が多く、ロシアはこうした地域のスラヴ民族運動を利用して、バルカン半島への南下をはかった(パン=スラヴ主義)。ロシア=トルコ戦争(1877〜78)のサン=ステファノ講和条約で、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立や、エーゲ海におよぶブルガリア自治公国(大ブルガリア)をロシアの保護下におくことが認められた。これにより一時、ロシアの南下政策は成功したかにみえたが、ベルリン会議(1878)で挫折した。

参考 詳説世界史研究

18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代に、黒海北岸のドニエプル河口地域とクリミア半島を獲得していたロシアは、19世紀前半から地中海東部地域への進出を本格化していった。オスマン帝国の領土に野心をもち、ギリシア独立戦争の際にはイギリス・フランスと共同してギリシアの独立を支援し、1829年にはアドリアノープル条約を締結して南下政策を成功させたようにみえた。しかし、イギリスのパーマストン Palmerston (1784〜1865 外相任1830〜34, 35〜41, 46〜51, 内相任52〜55, 首相任55〜58, 59〜65)は、ロシアの南下はイギリスのインド経営の脅威になると考え、フランスはエジプトとの利害関係を維持しようとしていたことから、ロシアの南下には極度の拒絶反応を示した。当時、ユーラシア大陸全域にわたる基本的国際対立は英・露間にあり、イランでも中央アジアからアフガニスタン方面でも対立が激化していた。
東方問題 Eastern Question
東方問題という歴史用語にはいくつかの用法がある。もともとこの用語はヨーロッパ側からみたもので、一般的に使われるようになったのはギリシア独立戦争以後である。広義にはオスマン帝国成立以来のヨーロッパとオスマン帝国の領土問題をさし、特に17世紀以来オスマン帝国の衰退が決定的になると、オーストリアやロシアがその領土の奪取に関心を深めたことをさしている。狭義には、19世紀前半のギリシア独立戦争からロシア=トルコ戦争(露土戦争)(1877)、ベルリン会議(1878)までのオスマン帝国領土や領土内の諸民族の問題をめぐるヨーロッパ列強のしのぎあいをさしている。もっとも狭義には第1次・第2次エジプト=トルコ戦争のみを指す場合もある。
近代化政策を進め、国内の富国強兵に成功したエジプトのムハンマド=アリー(位1805〜49)は、ギリシア独立戦争の際にオスマン帝国に援軍を送ったにもかかわらず、その報酬がクレタ島とキプロス島のみであったのでこれを不満とし、シリアの領有を1831年オスマン帝国に要求した。オスマン帝国はこれを拒否したので、両国は開戦した(第1次エジプト=トルコ戦争 1831〜33)。この戦争の際、フランスは公然とエジプトを支援し、イギリスはオスマン帝国の援助要請を拒否した。オスマン帝国を支援したのはロシアで、ロシア軍がボスフォラス海峡付近に上陸すると、イギリスとフランスはオスマン帝国に圧力を加えてエジプトと和解させた。その結果、シリアと小アジア半島南部のキリキア地方がエジプトの統治下におかれたので、この処置にオスマン帝国は不満をもち、1833年ロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約 Unkiar-Skelessi を結んだ。しかし、この条約の秘密事項に、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡のロシア軍艦の独占通行権があるとして、イギリスは強く反発した。 イギリスとロシア、さらにフランスが地中海東部地域の主導権をめぐって対立を激化させ、フランスはエジプトに接近した。フランスの抜け駆けを阻止するために、イギリスはオスマン帝国に接近してその領土保全策に転じ、さらにロシアやオーストリア・プロイセンとも協議して同盟を結成した。1839年、再びエジプトとオスマン帝国の間に戦闘が勃発すると(第2次エジプト=トルコ戦争 1839〜40)、フランスは孤立化し、全面的なエジプト支援をあきらめざるをえなくなった。イギリス軍はオスマン帝国を支援してエジプト軍を破ったので、1840年のロンドン会議でエジプトはオスマン帝国の宗主権下に、エジプト統治の世襲権のみを与えられて独立が容認された止まり、シリアの領有は放棄させられた。この会議であらゆる国の軍艦の両岸海峡通過も禁止され、41年フランスも加わって五国海峡協定が結ばれ、ウンキャル=スケレッシ条約が破棄された。イギリスはフランスのエジプト進出とロシアの南下の両方を阻止することができたので、外交的主導権を掌握することになった(パーマストン外交の勝利)。 19世紀の半ばになると、聖地(パレスチナ地方)の管理権問題を端緒にして、ロシアとオスマン帝国が開戦した(クリミア戦争 1853〜56)。この戦争ではロシア軍がオスマン帝国領内に侵入したので、オスマン帝国はイギリス・フランス*1に支援を要請し、両国は1854年ロシアに宣戦布告をおこなって積極的に支援した。翌年サルデーニャが参戦し、オーストリアもロシアに協調しなかったので、ロシアは国際的に孤立した。戦闘はおもに黒海沿岸でおこなわれ、最も激戦地だったのがクリミア半島のセヴァストーポリ要塞であった。ロシアはこの要塞を難攻不落と考えていたが、技術水準の高い両国の軍隊の前に1年間の包囲戦のあとついに陥落し、戦争はロシアの敗北で終結した。
*1 当時ナポレオン3世は成立したばかりの独裁政権(1852年に第二帝政を開始)の威信確立のために、外交上の得点を必要としていた。
パリ条約(1856)が結ばれ、ルーマニア*2が事実上独立を達成してナポレオン3世の威光が増し、黒海沿岸地域が中立地帯とされて、ロシアはいっさいの軍事施設の撤去を余儀なくされ、1隻の軍艦も黒海に浮かべることができなくなり*3、南下政策は再度挫折した。
*2 パリ条約でワラキアとモルダヴィアが連合王国を形成し、1866年からカロル1世(位1881〜1914)をドイツのホーエンツォレルン家から迎えて国内の近代化を進め、ロシア=トルコ戦争の際に独立宣言を発し、1878年のサン=ステファノ条約で独立が承認された。 *3 パリ条約ではそのほか、オスマン帝国の領土保全、セルビアの自治承認、ドナウ川の自由通航権などが確認された。
ロシアは国内の改革を進めたが、改革の不徹底もあって国民の目をそらすために対外進出の必要があった。一方、イギリスやフランスは外債や鉄道利権を通じてオスマン帝国に対する支配を強化していた。しかもオスマン帝国内での改革運動も決して成功していたとはいえず、バルカン半島では諸民族の自由主義の影響による独立運動がさかんになっていた。1870年からのプロイセン=フランス戦争でナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。 1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism *4の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義*5を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。
*4 バルカン半島に居住するスラヴ民族の統一を支援し、ロシアの主導のもとに運動を統一しようとする考え。ロシアの対外膨張政策のイデオロギーとして使われた。
この結果ベルリン条約が結ばれて、ロシアはクリミア戦争で失ったベッサラビアの一部など若干の領土を獲得したが、列強の圧力によってサン=ステファノ条約が改廃されてブルガリアの領土が縮小され*5、同時にロシアの影響が排除された。またイギリスがキプロス島の管理権を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方の統治権を獲得したので、ロシアの南下政策はまたまた挫折することになった。
*5 ブルガリアのみが単独の自治を与えられること、東ルメリアはキリスト教徒総督の監督下におかれ、準自治的地位をしめること、マケドニアはオスマン帝国の支配に戻されることが決まった。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国は17世紀以降、軍事・政治の両面で衰退が明らかとなり、ロシアやオーストリアの進出のまえに領土は縮小の一途たどった。19世紀に入ってからは、「東方問題」と呼ばれるオスマン帝国内の民族・宗教対立とこれに関連したヨーロッパ諸国の干渉がいよいよ激化し、同世紀末には、オスマン帝国は「瀕死の病人」と称されるにいたった。

参考

詳説世界史研究

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