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日清修好条規
日清修好条規(画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

日清修好条規

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日清修好条規 (1871) 日清間で結ばれた最初の条約で、通称章程(通商を行なうための細則)と海関税則かいかんぜいそくを含む。日本代表は伊達宗城だてむねなり、清は李鴻章。両国が制限的な領事裁判権を認め、変則的な対等条約となった。

日清修好条規

1871年、日清間で結ばれた最初の条約で、通称章程(通商を行なうための細則)と海関税則かいかんぜいそくを含む。日本代表は伊達宗城だてむねなり、清は李鴻章。領事の駐在・領事裁判権を相互に承認した初めての対等条約。華夷秩序かいちつじょ(中国を頂点とする国際秩序)の維持を主張する清との関係は円滑ではなかった。日清戦争まで適用。

参考 日本史用語集―A・B共用

日清両国が結んだ最初の修好通商条約。両国が制限的な領事裁判権を認め、変則的な対等条約となった。

参考 世界史用語集

近代国家の成立

明治維新と富国強兵

初期の国際問題
東アジア諸国との関係
幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。政府部内でも西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平(1834〜74)・副島種臣そえじまたねおみ(1828〜1905)らの参議がいわゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えても朝鮮の開国を実現させるという方針を内定した。 この征韓論は同時に、政府に強い不満を抱き、朝鮮への積極的進出に期待をかけ、それを望んでいる士族層をなだめ、彼らの矛先を海外に向けさせるためでもあった。 しかし、1873(明治6)年9月、岩倉具視一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通・木戸孝允らはあくまで内治の整備が先決であるとして征韓論に強く反対し、結局、同年10月、初めの方針は取り消され、西郷ら征韓派の参議は一斉に辞職した(明治六年の政変)。 その後、朝鮮問題は紛糾を続けたが、朝鮮を開国させるきっかけを掴もうとした日本政府は、1875(明治8)年軍艦雲揚うんようを派遣し、朝鮮の沿岸で測量を行うなど示威じいの行動をとった。同艦の艦長が首都漢城(現ソウル)に近い漢江河口の江華島にボートで近づくと、同島の砲台から砲撃を受けた。そこで雲揚は砲撃して砲台を破壊し、近くの島に兵員を上陸させて永宗城えいそうじょうを占領した。これが江華島事件である。この事件をきっかけに、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、翌1876(明治9)年、日朝修好条規(江華条約)を結んだ。
対朝鮮外交の基本態度
日朝修好条規を結ぶために、日本は参議黒田清隆を全権使節として6隻の艦隊とともに朝鮮に派遣し、武力を背景に交渉を進めた。ちょうどその20年以上前、ペリーが来航して日本に開国を要求したのと同様な立場に立ったわけである。事実、外務卿寺島宗則はアメリカ公使ビンガム(J.Bingham)に、この使節派遣について「たとえば貴国のコモドール=ペルリが下田に来る如きの処置なり」と説明し、政府は参考資料としてアメリカ公使館からペリーのアメリカ政府への復命書を借り出したという。この条約の締結によって朝鮮は釜山・仁川インチョン元山ウォンサンを開き、片務的な領事裁判権や関税免除を日本に対して認めた。こうして日本は朝鮮に不平等条約を押しつけたが、同時に、朝鮮を一つの独立国として清国の宗主権を否定する立場に立ったのである。
清国に対して、日本は1871(明治4)年、日清修好条規・通商章程しょうていなどを結んだ。同年、台湾に漂着した50名余りの琉球民が原住民に殺される事件がおこった。清国は、台湾の先住民を「化外けがいの民」として、漂流民保護の責任をとろうとしなかったので、事件の処理をめぐって交渉は難航し、1874(明治7)年、日本政府は西郷従道さいごうつぐみちのもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)。この事後処理のために、大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス公使ウェードの調停もあって、清国は日本の出兵を義挙ぎきょとして認め、償金50万テールを支払って解決した。 17世紀初頭以来、琉球は薩摩藩(島津氏)の支配下にあったが、名目上は清国にも属し朝貢するという両属関係にあった。明治政府は琉球を日本の領土とする方針を定め、1872(明治5)年には琉球藩をおき、琉球王尚泰しょうたい(1845〜1901)を藩王とした(琉球処分)。清国は琉球に対する宗主権を主張してこれに強く抗議し、前アメリカ大統領グラント(Grant, 1822〜85)は、宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする調停案(先島分島案)を示したが、清国側はこれを認めなかった。その後も紛争は続いたが、日清戦争における日本の勝利によって、琉球帰属問題は事実上、日本の主張通りに解決した。
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