帝国主義
1878年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ
帝国主義 imperialism 1870〜80年代以降の、資本主義列強が非ヨーロッパ地域を自国の植民地や勢力圏に組み入れようと競合し、対外膨張政策を展開した政治・経済・社会の動向。

帝国主義

1878年の世界地図 イギリス
1878年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ
1870〜80年代以降の、ヨーロッパ列強の対外膨張と植民地・勢力圏の獲得行動。背景には①独占企業と金融寡頭制の支配する独占資本主義への移行によって、原料・資源の供給地、商品・投資市場の獲得をめざす対外膨張策がとられたとする説、②労働運動や社会主義運動が活性化するなかで、大衆の不満を外にそらす対外膨張策と、国民的統合を強化する必要から国内での「福祉国家化」を並行して進めたとする説がある。

参考 世界史用語集

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

帝国主義
1870年代に始まる大不況を経過するなかで、欧米諸国では本国と植民地との結びつきを強め、勢力圏を拡大しようという主張が出されるようになった。1881年、イギリスはエジプトを事実上保護国化し、フランスはイタリアからチュニジアを奪った。これ以降、ヨーロッパ諸列強はこぞってアジア・アフリカに進出して世界分割競争をくりひろげた。その結果、第一次世界大戦が始まった1914年にはヨーロッパ系白人が地球上の土地の84%を支配するにいたった。そのうちイギリス帝国だけで地球の表面の5分の1を占め、4億の帝国臣民をかかえることになった。フランスは1876年から1914年の間に、植民地の領有面積は90万k㎡から1060万k㎡に増え、植民地住民の人口は925%も増加した。このように、資本主義列強が非ヨーロッパ地域を自国の植民地や勢力圏に組み入れようと競合し、対外膨張政策を展開した政治・経済・社会の動向を帝国主義という。
列強の海外植民地領有面積の比較図
列強の海外植民地領有面積の比較図(1914年)©世界の歴史まっぷ
帝国主義の要因に、第1に第2次産業革命により工業生産が高度化したことがあった。新興の工業は、石油・ゴム・錫・銅・亜鉛・ニッケルなど、ヨーロッパに産出しない新しい天然資源を必要とした。そこで、これらの資源を産する地域では現地の安い労働力を用いてプランテーションや鉱山が開発され、本国に工業原料を提供した。また、南洋の珍しい物品もヨーロッパの消費者に届けられた。また、不況で国内需要が低迷するなか、アジア・アフリカは重要な工業製品市場でもあり、過剰資本の投資先であった。イギリスがインドに敷設した鉄道網はこのような投資の先駆的な例であり、世紀転換期には中東・中国での鉄道利権の獲得を巡って激しい競争が展開された。
帝国主義
帝国主義の成立図 ©世界の歴史まっぷ
第2に、経済的利益の追求とは別の要因もある。地球上の各地に広く植民地を獲得することは世界戦略を展開する列強に国家的利益をもたらしたばかりでなく、それ以上に国家的威信の問題と考えられた。帝国主義的な海外進出はナショナリズムを高揚させ、政治・経済に対する大衆の不満を外にそらし、国内の政治的対立を隠蔽するという効果をもたらした。そのため、国民の間にも帝国主義をうけいれる傾向が広まった。 第3に、文化的要因があった。欧米諸国には、非ヨーロッパ地域の文化を軽視し、野蛮な有色人種にキリスト教とヨーロッパ近代文明の恩恵をもたらすことは白人のやむをえぬ使命である、という考え方も広まった。イスラーム教徒やインド人・中国人などに対する偏見は思想・文学・芸術などを通してくりかえし再生産され、ヨーロッパ人の思考意識を長らく支配した
このような知の枠組みをオリエンタリズムという。

帝国主義論

19世紀の最後の25年間くらいに顕著になった帝国主義的膨張という現象は同時代に批判的・科学的に解明され、帝国主義論の系譜として現在にうけつがれている。まず、イギリスの経済学者ホブソンはジャーナリストとして南アフリカ戦争を目撃した体験から『帝国主義論』を著し、輸出市場と資本の投下先を獲得するために一部の起業家が政府と大衆の世論に不当な非民主的な影響力を行使して利己的な利益を追求しており、このような帝国主義は本来の資本主義からの逸脱であると植民地支配礼賛の風潮を批判した。 またスイスに亡命中のレーニンは、第一次世界大戦中の1916年『帝国主義論』を書き、帝国主義とは資本主義の最高段階であり、大戦は投資の機会を追求すべくしいられた帝国主義列強の世界再分割の過程であると論じた。「帝国主義とは、独占と金融資本の支配が具体化する発展の段階にある資本主義のことである。この発展段階において、資本の輸出は明確な重要性をおび、国際トラストによる世界の分割が開始され、資本主義大国によって地球の全領土の分割が開始され、資本主義大国によって地球の全領土の分割が完成された」。このように定義されたレーニンの帝国主義論は日本の歴史教科書の記述にも大きな影響をおよぼしてきた。 同時代の古典的定義に対しては、① ドイツをのぞいて、銀行と重化学工業、軍部と民間の植民地団体とが協働して政府に影響力を行使した明白な証拠は見当たらない、② イタリアの場合がそうであるように、経済発展の規模と帝国主義的行為との間の関係は必ずしも合致しない、③ 新しく獲得された植民地は天然資源も乏しく、商品や資本輸出にも不向きで、むしろ経済的には魅力的なものではなかったなどの批判点が指摘されている。なかでもロビンソンとギャラガーの「自由貿易の帝国主義」論は古典理論批判の代表的なものである。それによれば、ヴィクトリア朝中期の自由貿易の時代にもすでに外交政策を通して「非公式」の、安上がりの帝国主義支配がおこなわれていたのであって、市場や資源獲得競争の激化の結果、現地の直接支配をめざす「公式」の帝国主義に移行したとされる。 一方、ドイツの社会構造史派のヴェラーは、ドイツの対外進出を、工業化と不均等な経済発展が生みだした国内の深刻な社会対立や政治的急進化に直面したドイツの政治指導者たちが、対外膨張政策へと国民の一体化をはかり、必要な国内改革を先送りするためにとった意図的な政策だったという観点から論じている。これは「社会帝国主義」論と呼ばれ、ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策の説明にも用いられている。 以上のように「中心」としてのヨーロッパからではなく、ラテンアメリカなどの「周辺」から論ずるフランク・アミンらの「従属理論」、それにウォーラースティンの「世界システム論」はグローバルな観点から世界資本主義の構造として帝国主義を論じている。
帝国主義時代には、工業が発達した「北」と、食料や原料の供給地、資本投下先としての農業社会の「南」の分業関係は世界各地に広まり、地球全体が資本主義体制に組み込まれた。世界の一体化は、鉄道や蒸気船の発達、海底電線の敷設といった交通・情報手段の発達がもたらしたものであり、北と南の支配・従属関係はより緊密に構造化された。それと同時に、諸列強間の格差も拡大した。工業力や資本力のあるイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国が列強の上位に、多民族国家として民族運動に直面したロシア・オーストリア、工業化が遅れていたイタリアは下位に位置づけられた。 世界の一体化は大陸から大陸へとむかうヒトの巨大な流れによっても推し進められた。移民の波はまず、ヨーロッパから諸代陸へむかった。経済危機、飢饉、戦争、政治的迫害、社会的差別などの困難から逃れるために人々は移民としてヨーロッパを離れた。ドイツ・アイルランド・スウェーデンなどからの移民は1880年代にピークを迎え、1900年以降はイタリア・スペイン・オーストリア=ハンガリー・ロシアからの移民が急増した。これらの移民の70%がアメリカ合衆国にむかった。イギリスとフランスという植民地大国では、インド・アルジェリアなどの自国植民地への移動がみられた。他方、アジアからの移民もみられた。中国人やインド人の出稼ぎ労働者は、アメリカ大陸やアフリカ・東南アジアで鉄道敷設に働き、プランテーションや鉱山の厳しい労働に従事した。

参考

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