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岩崎弥太郎
岩崎弥太郎(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

岩崎弥太郎

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岩崎弥太郎 いわさきやたろう (1834〜1885) 実業家・政商。土佐藩郷士出身。1870年に土佐藩営の大阪商会(のちの九十九商会)を譲り受け、海運事業中心の三川商会を設立。1873年三菱商会、75年三菱汽船会社に拡張。のち三菱会社として諸部門に進出、三菱財閥の基礎を確立。

岩崎弥太郎

実業家・政商。土佐藩郷士出身。1870年に土佐藩営の大阪商会(のちの九十九商会つくもしょうかい)を譲り受け、海運事業中心の三川商会みつかわしょうかいを設立。1873年、三菱商会、75年に三菱汽船会社に拡張。のち三菱会社として諸部門に進出し、三菱財閥の基礎を確立。

参考 日本史用語集―A・B共用

日本の海運業を独占した三菱財閥の創始者

土佐からはじまる立身急成長した政商

岩崎弥太郎は、土佐の郷士ごうしの家に生まれた。学問で身を立てるべく江戸に出るが、坂本龍馬らの要請に応じたグラバーら外国人商人との貿易に従事し、その後の人生の素地をつくった。明治維新後は、政治への野心を捨て、実業界に生きることを決意、九十九商会(のちの三菱商会)を興した。岩崎が目を付けたのは、海運業であったが、岩崎の読みは当たった。新政府の台湾出兵の軍事輸送を成功させて内務卿大久保利通の信任を得ると、政府の海運助成政策の保護下で郵便事業なども任され、三菱は国内最大の汽船会社となったのだ。会社を興してわずか5年である。その後も西南戦争の軍事輸送で功績をあげ、岩崎は瞬く間に政商として成長していった。しかし、岩崎の急成長には風当たりも強かった。1882年(明治15)、三井などを中心とした共同運輸会社が設立され、三菱と熾烈な競争を2年以上にわたって展開することになる。2社共倒れを危惧した政府の勧告により競争に終止符は打たれるが、岩崎は商戦中に病死。死に際し、「自分は東洋男児として恥ずかしくない人生を送ってきたつもりである」と呟いたという。
三菱:三菱の社名やマークは、岩崎の仕えた土佐藩(山内家)の家紋「三つ柏」を模したもの。のち「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」とを組み合わせたデザインに変えていく。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

明治維新と富国強兵

近代産業の育成
通信・交通制度
海運業では、1870(明治3)年、土佐藩出身の岩崎弥太郎いわさきやたろう(1834〜85)が藩の汽船を借り受けて九十九商会つくもしょうかいを創設し、1875(明治8)年には郵便汽船三菱会社と改称した。同社は官船の無償払下げや助成金の交付など政府の特権的保護のもとに、アメリカの汽船会社との競争に打ち勝ち、西南戦争などの軍事輸送によって巨富を得た。そして単に国内航路ばかりでなく、1875(明治8)年には早くも上海航路を始めるなど、外国航路を開設して積極的な経営を進めた。これがのちに政府の共同運輸会社と合併して、1885(明治18)年に日本郵船会社となったのである。

近代産業の発展

資本主義の発展
財閥の産業界支配
コンツェルンの形成 産業革命の達成
コンツェルンの形成 ©世界の歴史まっぷ
こうした資本主義の発展に伴い、とくに1907(明治40)年の恐慌を経て、三井・三菱・住友・安田・古河ふるかわなどの財閥が金融·貿易・運輸·鉱山業など多方面にわたって多角的経営を進め、三井財閥が1909(明治42)年に三井合名会社を設立したのをはじめ、各財閥とも持株会社を中心にコンツェルンの形態を整えて産業界を支配するようになった。いわゆる独占資本の形成である。

三井と三菱

財閥のなかでもとくに強カだったのは三井と三菱であった。三井は江戸時代から呉服商・両替商として巨富を蓄え、維新後は政府と結びつき、いわゆる政商として、銀行・物産・炭鉱業などで発展をとげたが、1890(明治23)年以後、紡績・製紙・電機・金属・機械などの企業部門にも進出し、1909(明治42)年に設立された三井合名会社を頂点に、巨大なコンツェルンを形成した。三菱は維新後、岩崎弥太郎が政府の特権的保護を受けて海運業で巨利を収めてその基礎をつくり、造船・保険業を中心に成長し、1893(明治26)年には三菱合資会社を設立し、製鉄・商事・信託・製紙・鉱業などにも手を広げ、1919(大正8)年には銀行部が独立して三菱銀行となり、合資会社のもとに財閥を形成した。

参考

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