南北戦争
南北対立と南北戦争時のアメリカ地図 ©世界の歴史まっぷ
南北戦争 Civil War (1861〜1865) 南北戦争 南部のアメリカ連合軍と北部のアメリカ合衆国との戦争。はじめ南軍有利に進んだが人口や経済力にまさる北軍有利に逆転。1865年連合国の首都リッチモンドが陥落して北部の勝利に終わった。近代的総力戦となり、戦死者は62万人を数えた。

南北戦争

南北戦争
Crewmembers of the USS Wissahickon by the ship's Dahlgren XI-inch pivot gun, during the Civil War.(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
南部のアメリカ連合軍と北部のアメリカ合衆国との戦争。リンカンの考えはあくまで「連邦の維持」だったが、南軍が戦端を開いて始まった。戦況は、はじめ南軍有利に進んだが、まもなく人口や経済力にまさる北軍有利に逆転した。戦争は1865年、ヴァージニア州で南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍に降伏して終了した。近代的総力戦となり、戦死者は62万人を数えた。

参考 世界史用語集

戦争データ

年月日:1861年4月12日〜1865年5月9日
場所:アメリカ南部, アメリカ北東部, アメリカ西部, 大西洋
結果:アメリカ合衆国の勝利 奴隷制の廃止 アメリカ合衆国の領土保全の成功 アメリカ連合国の消滅 レコンストラクションの開始
交戦勢力
アメリカ合衆国 アメリカ連合国
指導者
エイブラハム=リンカーン ユリシーズ=グラント シャーマン将軍 ジョージ・マクレラン デヴィッド・ファラガットほか ジェファソン=デヴィス リー将軍 ジョセフ・ジョンストン ストーンウォール・ジャクソンほか
戦力
2,200,000人 750,000〜1,000,000人

参考 Wikipedia

欧米における近代国民国家の発展

アメリカ合衆国の発展

南北戦争
アメリカ合衆国の南部と北部は、経済的構造の相違からしだいに対立するようになった。南部地域は独立以前から、黒人奴隷を労働力とするタバコ・米・藍・綿花などを栽培する大農園(プランテーション)が普及していた。特に産業革命以降は材料としての綿花の需要が増大し、この地域の経済は発展をとげた。南部地域はイギリス本国へ原料の供給、工業製品の購入という相互依存関係が成立していたので、外国製品に関税をかけない自由貿易制度を主張し、連邦政府の権限を縮小して州の自治を尊重する方向をめざした。 これに対して北部は、産業革命が1840年代以降本格的に進行することになって技術・生産の面で進んでいたイギリス本国の工業とは競合する関係にあった。そのため、アメリカの工業製品の市場を確保するためにも優秀なイギリス製品を排除する必要があり、保護主義の立場を主張し、その政策を確実に実行するために中央政府の権限を強化する連邦主義の立場をとった。 両地域の対立は西部の開拓が進むにつれ、西部に新しく生まれる州の争奪というかたちで激化した。1820年両地域はミズーリ協定を結んで北緯36度30分以北に生まれる新しい州は奴隷制度を認めない自由州、それ以南に生まれた州は奴隷州にすることにして妥協した。しかし、1822年よりアメリカ合衆国で解放された黒人がリベリア共和国の建設を開始して47年独立を達成したように、黒人奴隷の開放へむけての運動は耐えることがなかったし、合衆国の内部対立の火種としてくすぶり続けた。アメリカ=メキシコ戦争の結果、アメリカ合衆国に編入されたカリフォルニア・ニューメキシコの扱いに関して南部と北部との間で対立がおきたが、カリフォルニアは自由州とするがニューメキシコについては住民の決定を待ち、さらに北部は奴隷逃亡取締法を実施することで妥協が成立した(1850年の協定)。2年後の52年、ストウ夫人 Stowe (1811〜96)は黒人奴隷を主人公とする『アンクル=トムの小屋』を出版したので、北部地域では黒人奴隷制反対の世論が高まった。
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南北対立と南北戦争時のアメリカ地図
南北対立と南北戦争時のアメリカ地図 ©世界の歴史まっぷ

❶1861 サムター要塞, ❷1861 第1次ブルラン, ❸ 1862 ヘンリー要塞, ❹ 1862 ドネルソン要塞, ❺ 1862 シャイロー, ❻ 1862 ニューオリンズ, ❼ 1862 第2次ブルラン, ❽ 1862 アンティータム, ❾ 1862 フレデリックスバーグ, ❿ 1863 チャンセラーズヴィル, ⓫ 1863 ヴィックスバーグ, ⓬ 1863 ゲティスバーグ, ⓭ 1864 荒野の戦い, ⓮ 1864 ピーターズバーグ, ⓯ 1864 アトランタ, ⓰ 1864 フランクリン, ⓱ 1864 ナッシュヴィル, ⓲ 1865 アポマトックス 参考:ビジュアル 世界史1000人(下巻)

こうしたなか、西部に生まれた新しいカンザス・ネブラスカ両州が連邦に加盟する際、ミズーリ協定が破棄され、住民投票によって奴隷州にするか自由州にするか決定することになったので(1854年 カンザス・ネブラスカ法)、奴隷制の拡大を恐れる反対派は同年、ホイッグ党を発展的に解消して共和党を結成した。当時、南部から北部へと黒人奴隷が逃亡するのを助ける地下組織(アンダーレイルロード)が活発に活動していたが、業を煮やした南部側が裁判所の判断を求めた。57年、奴隷が自由州に逃げても解放されないとする最高裁判決(ドレッド=スコット判決)が出て南部側は勝利したが、北部の奴隷制反対派は激しく反発した。急進的解放論者であったジョン=ブラウン John Brown (1800〜59)は59年、ヴァージニア州で武装蜂起をおこなったが期待された黒人の協力と蜂起はおこらず、反乱は失敗に終わり、絞首刑にされた。こうして政治問題となった黒人奴隷制問題は60年の大統領選挙の際最大の争点となった。
南北戦争
1865年リバークイーン(蒸気船)上のシャーマン将軍・グラント将軍・リンカン大統領・ポーター海軍大将。 The Peacemakers (George Peter Alexander Healy画/ホワイトハウス蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
1860年の大統領選挙では、共和党はリンカン A.Lincoln (1809〜65 任1861〜65)、民主党はブレッキンリッジ J.C.Breckinridge (1821〜75)を候補として激しい選挙戦が展開されたが、リンカンが勝利して第16代大統領に就任した。南部はこの事実を認めようとせず、61年2〜3月リッチモンドを首都とし、ジェファソン=デヴィス Jefferson Davis (1808〜89)を大統領とするアメリカ連合国 Confederate States of America を結成して連邦から脱退した。リンカン大統領は穏健な奴隷解放者であったので、奴隷解放より連邦の統一を優先する方針をとって南部側の独走を抑えようとしたが失敗し、南部側によるサムター要塞攻撃事件が61年4月おきるにおよんで南北戦争(1861〜65)が勃発した。 北部はもともと人口・農地・工場・預金高・鉄道の敷設距離など、戦力の面で南部と比較して優勢であったが、有能な将軍がいなかったため、戦争開始段階では南部がヴァージニア出身のリー将軍 Lee (1807〜70)のもと優勢に戦局を展開した。北部側は劣勢をはね返すために将軍を更迭したり、南部の補給ルートを断つために海上封鎖を実施したりした。さらに西部地域の支持を獲得する意図もあって、62年ホームステッド法 Homestead Act を制定して5年間西部に定住しただけで160エーカーの土地を無償で提供することを決めた。またイギリスや当時メキシコに軍隊を派遣していたフランスの干渉を排除するために、奴隷解放宣言を1863年1月発表し、内外に北部の戦争目的の正当さをアピールした。ミシシッピ川流域で連勝していたグラント将軍 Grant (1822〜85 任1869〜77)が北軍の最高司令長官に就任するころから、戦局はしだいに北部側優勢へと転換し、63年のゲティスバーグの戦い Gettysburg で北部深く侵入したリー将軍率いる南軍を北軍が破ると、北部の優勢は動かないものとなった。補給がない南軍はしだいに追いつめられ、シャーマン将軍 W.Sherman (1820〜91)はアトランタを占領し、グラント将軍はリー将軍を追いつめた。1865年ついに連合国の首都リッチモンドが陥落して南北戦争は北部の勝利に終わった。

参考

詳説世界史研究

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