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与謝野晶子
与謝野晶子(国立国会図書館蔵/ 近代日本人の肖像)©Public Domain

与謝野晶子

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与謝野晶子 よさのあきこ (1878〜1942) 歌人。与謝野鉄幹よさのてっかんを慕って1900年に新詩社に入り、翌年結婚。歌風は情熱的で華麗。日露戦争を批判する長歌を『明星』に発表する(『君死にたまふこと勿れ』)。『みだれ髪』の399種は青春の情熱と官能的な生の賛歌を歌う。

与謝野晶子

歌人。鉄幹を慕って1900年に新詩社に入り、翌年結婚。歌風は情熱的で華麗。日露戦争を批判する長歌を『明星』に発表する。 『みだれ髪』:1901年、新詩社刊。与謝野晶子の歌集。399種は青春の情熱と官能的な生の賛歌を歌う。

参考 日本史用語集―A・B共用

ロマン主義を代表する情熱の歌人

与謝野晶子が1901年(明治34)に発表した歌集『みだれ髪』は、本能を肯定し、情熱的で封建道徳に反抗した歌が多く収められ、当時の若者たちから多くの支持を得た。夫の鉄幹が主催する雑誌「明星」に、日露戦争に参加した弟の無事を祈った反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を寄せている。この詩は掲載当時、「乱臣なり賊子なり」と批判されたが、晶子にとって歌は、「まことの心をまことの声」で詠むものであった。その真実の心を吐露した作風は現代においても評価されうるのである。1912年(大正1)、鉄幹を追って訪れていたヨーロッパから帰国した晶子は、婦人・社会問題に関する評論活動も始め、大きな功績を残している。1919年に発表した「激動の中を行く」では、良妻賢母主義を批判し、「母性保護」を訴える平塚らいてうとも論争した。旺盛な作家活動を続けた晶子だったが、1940年(昭和15)脳溢血で倒れ、2年後に没した。
子だくさん:与謝野鉄幹と晶子は子だくさん。しかし、鉄幹の詩は売れず、家計は火の車。晶子は来る仕事を次々と引き受け、全国行脚あんぎゃ。歌の短編を売り、生活を支え続けた。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

日露戦争と国際関係

日露戦争

日露開戦への道

主戦論非戦論・反戦論

  • 戸水寛人ら東京帝国大学などの七博士が意見書を提出

  • 対露同志会の結成(1903.8)

  • 『万朝報』の黒岩涙香と『国民新聞』の徳富蘇峰

日露戦争(1904.2〜05.9)

  • 内村鑑三の非戦論

  • 幸徳秋水・堺利彦ら平民社による反戦論

  • 与謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」(『明星』1904.9開戦後)

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非戦論
日露戦争に対する国民の熱狂的歓呼が渦巻くなかで、少数ながら戦争反対を唱えた人々もあった。内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から非戦論を説き、幸徳秋水こうとくしゅうすい堺利彦さかいとしひこ(1870〜1933)ら社会主義者は初め『万朝報よろずちょうほう』、のち『平民新聞』によって反戦論を展開し、開戦後もロシアの社会主義者に反戦を呼びかけた 。また与謝野晶子(1878〜1942)は、日本軍の旅順攻撃が続けられているころ、これに加わっている弟の無事を祈って、戦争への疑問をこめた詩「君死にたまふことなかれ」を発表した。

近代文化の発達

近代文学
人間の自由な感情を重視するロマン主義も、1893(明治26)年に創刊された『文学界』を中心に、しだいに大きな文芸運動となった。その中心は北村透谷きたむらとうこく(1868〜94)·島崎藤村(1872〜1943)らで、彼らは文芸の自立を主張し、それを功利的に考えることに反対するとともに、硯友社文学の卑俗性を鋭く批判した。とくに、藤村は『若菜集』(1897)を刊行して青年の清新な理想と情熱をうたいあげ、詩歌史上にー画期をつくった。また同じころでた女流作家樋ロ一葉(1872〜96)も、『たけくらべ』『にごりえ』などに独特の美しい筆致で庶民の哀歓を描いた。ロマン主義はその後、与謝野寛(鉄幹、1873〜1935)·与謝野晶子ら『明星』派の歌人に受け継がれ、しだいに奔放な官能的作風を示すようになり、高山樗牛たかやまちょぎゅうは本能的・感覚的快楽に重きをおく美的生活論者となった。また、国木田独歩くにきだどっぽ(1871〜1908)は個人的な内面生活の探究に傾き、自然主義への道を開いた。

参考

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