ヴィクトリア(イギリス女王)
ヴィクトリア(イギリス女王・インド女帝)©Public Domain

ヴィクトリア(イギリス女王)

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ヴィクトリア(イギリス女王) 1819年5月24日 – 1901年1月22日
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 – 1901年1月22日)
初代インド女帝(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)
世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。
第1回万博博覧会をロンドンで開催。大英帝国の黄金期「ヴィクトリア朝」を迎える。

ヴィクトリア(イギリス女王)

「女王の治世に国が栄える」のジンクス通りの栄華

1901年1月22日、20世紀にバトンを渡すかのようにヴィクトリア女王は崩御した。治世は63年7ヶ月。イギリス史上、最長だった。

彼女がいきた時代は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる大英帝国の黄金期である。産業革命で世界の工場となったイギリスは、自由貿易主義をかかげ資本主義の極性期を迎える。自由と保守、二大政党の対立で議会政治は頂点を極め、強大な海軍力に支えられた世界一の植民地帝国は完成期にあった。アフリカで発見された世界三大瀑布の1つにも、アフリカ最大の湖にも、香港の海に臨む山や湾にも、北極海の島にも、南極大陸の山岳地帯にも、誇らしげに女王の名が冠せられた。国民から敬愛されていたのである。

バッキンガム宮殿
バッキンガム宮殿 近衛兵による交代儀式 ©Public Domain

ヴィクトリア女王のロンドンでの住まいとして使われたバッキンガム宮殿。衛兵の交代式が現在でも毎日行われている。

  • ヴィクトリアの滝 : ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝(世界遺産)
  • ヴィクトリア湖:ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大の湖
  • ビクトリア・ハーバー:南シナ海に面し珠江デルタに浮かぶ香港島と九龍半島の間、香港の市街地の中心地に位置する湾
  • ヴィクトリア・ピーク:中国人が太平山と呼んでいた香港の山の頂上
  • ヴィクトリア島:北極諸島にある島
  • ヴィクトリアランド:南極にある地域

新しい時代を象徴する新しいタイプの王室像

彼女が愛された理由の1つが、率直で真面目でお堅いその性格だった。多くの愛人をかかえていた父は、50歳でドイツの公女と結婚し翌年にヴィクトリアが誕生、その8ヶ月後に急死する。ヴィクトリアは質素堅実がモットーの母により退廃したイギリス王室から隔離され、厳しく、口やかましく躾けられた。その結果、物怖じせず、相手をまっすぐ見つめ、才気煥発ではないが自分の意見はちゃんと表明する女性に育ったのである。イギリス国民にとってこれは新鮮だった。彼女は新しいタイプの王女であり、新しい時代にもふさわしかった。

1886年の大英帝国の範囲を示す世界の帝国連合の地図 ウォルター・クレイン
1886年の地図(ウォルター・クレイン画/Cornell University Library

画家ウォルター・クレインによって描かれた1886年の地図。英国領が赤色で示され、右上の囲みにはその100年前、1786年の英国領が示されている。ヴィクトリア女王の治世でイギリスがいかに躍進したかがひと目でわかる。

18歳で即位。当初は議会との間合いに戸惑ったが、3年後に結婚したアルバート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)の補佐により、「君臨すれども統治せず」のスタンスを学ぶ。二人は9人の子をもうけ、いずれも自分たちの手許で育て、休暇には揃ってスコットランドの城へ出かけてイギリス国民に理想の家庭像を示してみせた。

以後ヴィクトリアは、夫の死により全てに絶望して42歳からの約10年を喪に服した以外は、几帳面に公務にいそしんだ。アルバートが遺した子女の多くは、ヨーロッパ各国の王室と結ばれた。そのため彼女は「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれている。

軍事力をもつ国策会社 「東インド会社」

イギリス、フランス、オランダ、デンマークなどの国々は、地中海沿岸および欧州以外のエリア(一括りにインドと呼ばれた)での貿易独占権を勅許した会社を組織した。植民地支配のメイン・エンジンとなる東インド会社である。

イギリス東インド会社は、最初はジャワやインド、タイや日本にも商館をおいたが、しだいにインドの比重を増やす。1757年、イギリス軍人ロバート・クライブ(1725〜1774)は、イギリス東インド会社軍を率いてベンガル地方プラッシーでフランス・ベンガル太守連合軍を破り(プラッシーの戦い)インド全域を支配、初代ベンガル知事となる。これにより東インド会社も行政機構の性格を帯び始めた。

ヴィクトリア女王の父はドイツ系のハノーヴァー朝、母もドイツ生まれ、女王も3歳までドイツ語で育った。夫アルバート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)もドイツ系で、二人の日常会話はドイツ語だった。

アルバート公が腸チフスで急死すると、ヴィクトリア女王はあらゆる興味を失った。公務も執らず、公に姿を見せず、世間は「このまま王政から共和制に移行するのではないか」と噂した。

参考

launch ビジュアル 世界史1000人(下巻)

64年の長きにわたって大英帝国に君臨する

ヴィクトリア(イギリス女王)は、イギリス史上5人目の女王として18歳で即位した。即位年は1837年。大陸の諸国は、まだ革命や国家統一に苦慮していた時代である。イギリスはすでに産業革命を終えて、経済力、技術力において、他国よりはるかに抜きん出ていた。ロンドンで開かれた第1回万国博覧会では、30万枚のガラス張りの「水晶宮(クリスタル・パレス)」が建てられ、600万人の入場者がそれに驚嘆した。世界初の地下鉄もロンドンで走った。こうした「世界の工場」に、ヴィクトリアは63年7ヶ月間君臨する。
議会では二大政党制が成立。ディズレーリ率いる保守党、グラッドストンの自由党によって、政策が施行されていった。
即位40年目、イギリス領インド帝国が成立すると、ヴィクトリアはインド皇帝の称号も帯びた。

参考

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

イギリスのヴィクトリア時代

ヴィクトリア女王の在位は64年の長期にわたったが、女王在位の期間はイギリスの政治・経済・社会の面で繁栄期であった。19世紀はイギリスが経済的に繁栄し、圧倒的な海軍力を保持していたことから「パクス=ブリタニカ Pax Britannica」と呼ぶこともある。

参考

launch 詳説世界史研究

年表

  • 1819年5月24日 イギリス・ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子ケント公エドワードとザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国公フランツの間に長女として生まれる。父ケント公は借金まみれでケンジントン宮殿を兄の摂政皇太子ジョージ(後の英国王ジョージ4世)から借りて一家はロンドンに住んでいた。

    生誕時の王位継承順位

    生誕時のヴィクトリアのイギリス王位継承順位は3人の伯父、摂政皇太子ジョージ、ヨーク公フレデリック、クラレンス公ウィリアム(後の英国王ウィリアム4世)と父ケント公に次ぐ第5位であった。

    ヴィクトリア(イギリス女王)
    ヴィクトリア生誕時のイギリス王位継承順位(灰色は故人) ©世界の歴史まっぷ
  • 1820年1月23日 ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公薨去。夫が残した莫大な借金を背負わされた母ケント公妃は、弟レオポルド1世(ベルギー王)(亡きシャーロットの夫で1831年にベルギー王に即位するまで英国に滞在し続けていた)から資金援助を受け、ジョージ4世から借りているケンジントン宮殿にそのまま住んだ。
  • 1820年1月29日 ジョージ3世(イギリス王)崩御。摂政皇太子ジョージがジョージ4世としてハノーヴァー朝第4代国王に即位。
  • 母はケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイ(後のジョン・コンロイ(初代准男爵))の影響を強く受けており、母とコンロイはヴィクトリアが王位を継いだ後、彼女を操って権力を握る算段であった。
  • ヴィクトリアは何歳になっても母と同じ寝室で寝起きして母の監視を受けた。母はヴィクトリアがジョージ3世の放蕩息子たちのようにならぬよう宮殿に近づけようとせず、貞潔・道徳を重んじる女性に育てようとした。
  • 1824年 5歳の頃、イギリスと同君連合のハノーファー王国出身のルイーゼ・レーツェンがガヴァネスに付く。このレーツェンはヴィクトリアに非常に大きな影響を与えた。
  • 1826年 7歳でガーター勲章を授かる。
  • 1830年6月26日、ジョージ4世(イギリス王)が子のないまま崩御。次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、三弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世(イギリス王)としてハノーヴァー朝第5代国王に即位。
  • 1830年11月、トーリー党(後の保守党)の政権が崩壊し、ホイッグ党(後の自由党)が政権を掌握して第一次選挙法改正など自由主義改革が行われるようになる。
  • 母ケント公妃が実家ザクセン=コーブルク家の公子たちをやたらとヴィクトリアに引き会わせようとすることにジョージ4世(イギリス王)は苛立ち、その阻止に全力を尽くす。またケント公妃の弟であるレオポルド1世(ベルギー王)が頻繁にヴィクトリアに手紙を送ってくることも気にくわなかった。国王にはザクセン=コーブルク家をあげてイギリス王室を乗っ取ろうとしているように思えた。
  • 1837年5月24日 ヴィクトリアは18歳になり、成人した。国王はお祝いとして彼女の年金を1万ポンド増額させるとともに新宮殿を与えるので母親から独立してはどうかと勧めたが、ケント公妃の反対によりヴィクトリアは辞退する。
  • 1837年6月20日 ウィリアム4世(イギリス王)崩御。ヴィクトリアは18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位する。
  • バッキンガム宮殿へ移ると、母の部屋を遠ざけ、家令サー・ジョン・コンロイには今後の目通りは一切叶わない旨を通達する。一方、レーツェンは自分の部屋の隣に留め置いて相談役として重用した。また叔父ベルギー王レオポルドの側近であるコーブルク家臣クリスティアン・フリードリヒ・フォン・シュトックマー男爵がレオポルドとの連絡役としてバッキンガム宮殿に勤務するようになり、ヴィクトリアの新たな助言役となっていった。しかしベルギーに肩入れするよう求めるレオポルドの要請に対してはヴィクトリアは慎重に回避し続けた。
  • 1837年6月21日 セント・ジェームズ宮殿で君主宣言の儀を行い、勅命によって王名を「ヴィクトリア」と定める。
  • 1838年6月28日 ロンドン・ウェストミンスター寺院において戴冠式を挙行した。オーストリアからヨハン・シュトラウス1世が到来し、『ヴィクトリア女王讃歌』というウィンナ・ワルツを捧げられた。これが端緒となって、ヨーロッパ大陸諸国に遅れること20年、ようやくイギリス社交界においてもワルツが受容された。
  • 1840年2月10日 ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世(母ケント公妃の兄)の次男であるアルベルトとロンドンのセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行。アルバート(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)は身長こそ167センチと低めだが、顔は美しく、高い教養をもっており、ヴィクトリアは自ら望んで彼と結婚した。
  • 1840年6月 ヴィクトリアとアルバートが馬車でコンスティテューション・ヒルを通過中、見物人の一人が女王に向けて発砲する事件が発生した。一発目は外れ、続けて二発目が撃たれる直前にアルバートはヴィクトリアを馬車のなかに引き倒して彼女を守った。アルバートの行動は新聞に称賛され、ヴィクトリアとアルバートが行くところ国民の万歳の声があがるようになった。
    しかし貴族社会や社交界からはアルバートは「外国人」として疎まれており、ヴィクトリアも結婚初期にはアルバートが政治の場に出てくることを望まず、公文書を見ることを許可しなかった。
  • 1840年11月 長女ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)誕生。
  • 1841年11月 長男アルバート・エドワード(愛称バーティ)誕生を筆頭に1840年代にヴィクトリアが出産を繰り返したため、アルバートが補佐役を務める必要性が増す。
  • 1842年頃からヴィクトリアは公文書作成にあたってアルバートの助力を得るようになり、また大臣引見の際にもアルバートを同席させるようになった。これ以降イギリスはヴィクトリアとアルバートの共同統治に近い状態と化した。アルバートはメルバーン子爵やホイッグ党に肩入れするヴィクトリアに対して「君主は党派争いを超越した存在にならなければならない」と諌め、王権の中立化に努めた。
    アルバートは宮中での自身の影響力の増大にも努め、1842年にはヴィクトリアの幼い頃からの側近であるレーツェンを宮廷から去らせ、さらに1844年にはピール首相の反対を押し切って二大政党の綱引きで雁字搦めになっていた王室管理機構の改革にあたり、宮内長官、家政長官、主馬頭の分掌体制を王室家政長官の下に一元化した。
  • 1841年6月4日 ピール率いる保守党はメルバーン子爵内閣に内閣不信任案を突きつけた。メルバーン子爵の上奏を受けてヴィクトリアは庶民院を解散した。解散総選挙の結果、保守党がホイッグ党に80議席以上の大差をつけて勝利した。メルバーン子爵も今度こそ辞職せざるを得なくなった。ヴィクトリアはこの時点でもピールを首相にする事を渋っていたが、アルバートが彼女を説得した結果、1841年8月30日にピールに大命を降下した。
    ヴィクトリアは過去の経緯やそのそわそわした態度からピールを嫌っていた。ピールも宮殿に居心地の悪さを感じて長時間宮殿に滞在しようとはせず、ヴィクトリアと疎遠になった。しかしアルバートは宮廷策謀より首相の職務に全力を挙げているとしてピールの態度を高く評価した。
    首相ピールはアルバートの支持のもと関税の大幅減税、所得税導入などの改革を推進した。やがてヴィクトリアもアルバートとともにピールに全幅の信頼を寄せるようになった。保守党内部にはピールの改革に反発もあったが、アルバートとヴィクトリアがピールを支持した事により、ピールは長らく抵抗勢力を押し込むことができた。ピール首相がミッドランド地方の紡績工場主だった関係でヴィクトリアは外国との過当競争や需要低下に苦しむ織物産業に関心を持つようになり、イングランド織物の宣伝のために1842年5月12日に14世紀の絹織工業をテーマにした「プランタジネット舞踏会」を開催した。アルバートはエドワード3世、ヴィクトリアはフィリッパ王妃の仮装をした。しかしこの舞踏会はエドワード3世を侵略者として憎むフランス人の反発を買って英仏関係をギクシャクさせたばかりか、イギリスのマスコミからも失業者が飢えている時に何をやっているのか、という強い批判に晒された。
  • 1845年夏 アイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。これによりアイルランドでは100万人が餓死もしくは栄養失調で病死し、さらに100万人が新天地アメリカやカナダへ移民することを余儀なくされた(アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの曾祖父もその一人)。1841年時に800万人だったアイルランド人口が1851年には650万人に減るという惨状だった。
    ヴィクトリアはライオネル・ド・ロスチャイルドが主宰する「アイルランドとスコットランドの貧民のための英国救貧協会」に2000ポンドの寄付をしている。これは同協会に寄せられた寄付金額の第一位であり、第二位のロスチャイルドとデヴォンシャー公爵の寄付金額1000ポンドを大きく引き離す額だった。ジャガイモ飢饉の深刻さを受け止めたピール首相はアイルランド人が安い価格の輸入穀物を購入できるよう、保護貿易主義の穀物法を廃止する決意をした。ヴィクトリア夫妻も貧しい民衆もそれを支持した。しかし地主貴族など保守党内の抵抗勢力が穀物の自由貿易に強く反発したため、ピールは穀物法廃止法案と刺し違える形で1846年6月に辞職を余儀なくされた。
    この騒ぎで保守党はピールを筆頭とする自由貿易派とダービー伯爵を筆頭とする保護貿易派に分裂しピール派がホイッグ党と連携したことでホイッグ党が議会の多数派になり、ホイッグ党首であるジョン・ラッセル卿に大命降下した。ヴィクトリアはラッセル卿の内閣で外相になったパーマストン子爵が親仏外交でアイルランド貧困問題を無視するようになるのではと心配していた。
  • 1848年 ヴィクトリア女王夫妻、メルバーン子爵、ピールらによる自由主義的な改革は裕福なブルジョワには歓迎されたが、貧しい労働者階級には期待はずれであり、社会改革を求めるチャーティズム運動が高まった。
    1848年には大陸で1848年革命が発生し、イギリスでもチャーティズム運動が勢いを増した。「共和政万歳」を叫ぶ者たちがバッキンガム宮殿の外のランプを破壊する騒ぎがあり、身の危険を感じたヴィクトリアら王族はワイト島のオズボーン・ハウスへ一時的に避難した。
    しかし比較的自由主義的な政府があり、不十分とはいえ一定の改革を行ったイギリスでは絶対主義的な君主国家ばかりの大陸ほど革命は燃え広がらず、やがてチャーティズム運動も下火になっていった。ヴィクトリアは「労働者たちはプロの扇動家、犯罪者、クズどもに扇動されただけで王室への従順さを失っていなかった」と述べて胸をなでおろした。
  • 1851年 第1回ロンドン万国博覧会の準備はアルバートが取り仕切った。ロンドン万博の会場としてハイド・パークにデヴォンシャー公爵所有の豪邸チャッツワース・ハウスの温室をモデルにデザインされた30万枚のガラスで覆われた巨大な水晶宮(クリスタル・パレス)が建設された。開会宣言はヴィクトリアが行った。女王暗殺を警戒して開会宣言を内輪で行うべきとの意見もあったが、最終的にはヴィクトリア自身が公開して行うと決めた。世界30カ国以上が参加し、水晶宮には世界各地から集められた10万点の展示物が飾られた。ヴィクトリアは万博開催中の数ヶ月間、気分が高揚してロンドン万博以外のことはほとんど頭になくなっていた。万博のすべてを見学しようと1週間に数回という頻度で水晶宮を訪れている。ロンドン万博は140日の期間中にのべ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れた。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。収益も相当な額に上り、その収益と議会の創設した基金とでケンジントン地区再開発を行い、エクサビション・ロードやクロムウェル・ロード、クイーンズ・ゲートなどの道路が整備された(道路の名前は全てアルバートが命名した)。さらに1850年代にも万博実行委員会所有の土地を使ってロイヤル・アルバート・ホール、ヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムなどを続々と創設した。
    ヴィクトリアは1851年7月18日付けの日記に「我が愛する夫と我が国の功績に対して寄せられた平和の祈りと親善が大勝利を収めた」と書いている。
  • 1861年12月14日 夫アルバート薨去。ヴィクトリアの悲しみは深く、その後彼女は10年以上にわたって隠遁生活をはじめた。日々をワイト島のオズボーン・ハウスやスコットランドのバルモラル城などで過ごしてロンドンには滅多に近寄らなくなった。国の儀式にも社交界にもまったく臨御しなくなった。たまに人に姿を見せる時には常に喪服姿であった。自分だけではなく侍従や女官、奉公人に至るまで宮殿で働く者全員に喪服の着用を命じていた。ヴィクトリアによればアルバートを失った直後の3年間は死を希望する心境にさえなっていたという。
  • 1862年 再びロンドン万博が開催されたが、彼女はアルバートのことを思いだして居た堪れなくなるとして欠席した。
    国民ははじめヴィクトリアに同情する人が多かったが、やがていつまでも公務に出席しない彼女を批判する論調が増えていった。特にヴィクトリアが三女アリスの結婚式をまるで葬式のようにやらせたのを機に女王批判が強まっていった。保守的な『タイムズ』紙さえも「女王の喪はいつになったら開けるのか」「女王には公人としての義務があり、それを無視するのであれば君主制は失われるだろう」という忠告の論調を載せている。女王のあまりの引きこもりぶりに「女王がいなくても国は問題なくやっていけている。王室を養う税金は無駄」などとして共和主義者が台頭し始める始末となった。
    女王が君主としての公務を行えないなら皇太子バーティが代行するのが普通であるが、ヴィクトリアはそれも許さなかった。この「出来そこない」の息子のせいでアルバートが過労になったと考えていたヴィクトリアはバーティには重要なことは何も任せないつもりでいた。引きこもってばかりいると身体に悪いという侍医の薦めでヴィクトリアは乗馬や馬車で出かけるようになり、その関係でバルモラル城でのアルバートの馬係であったスコットランド人ジョン・ブラウンと関わる機会が増え、彼を寵愛するようになった。ブラウンは事実上ヴィクトリアの秘書、ボディーガードとなっていき、王族や首相といえどもブラウンを介さなければヴィクトリアに謁見できなくなった。この女王とブラウンとの関係をマスコミが面白半分に取り上げ、二人が秘密結婚したなどという噂が流れるに至り、ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」などと呼ばれるようになった。
  • 1872年 バッキンガム宮殿でヴィクトリアに17歳のアイルランド人が拳銃を向け、ブラウンに取り押さえられる事件が発生する。拳銃に弾が入っていなかったため、犯人の刑は懲役1年だった。二人の間にセックスの関係があったのかについては歴史家の間で意見が分かれており定かではない。ヴィクトリアとブラウンの親密な関係は1883年のブラウンの死まで続いたが、その頃にはすっかり肥満した老婆になっていたヴィクトリアはあまりゴシップのネタにならず、ブラウンも勤勉な世話係として評価されるようになっていた。ブラウンが亡くなった際にはヴィクトリアはアルバート薨去の時並みに取り乱したという。そしてブラウンの部屋を崩御までの18年にわたってそのままの状態で保存させ、毎日摘みたてのバラを彼の枕に添えさせた。ただこの服喪時代にもヴィクトリアは外交には強い興味を持ち、パーマストン子爵の内閣がイタリア統一、アメリカ南北戦争、ポーランド1月蜂起、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題など他の欧米諸国の問題に介入を企む姿勢を見せるとヴィクトリアは不介入を政府に指示してブレーキをかけた。また逆にダービー伯爵の孤立主義・不介入主義に対してはルクセンブルク問題のようにヨーロッパの平和が脅かされる恐れがある問題については積極的に介入するべきであると発破をかける役割を担った。また夫を弔う事には勤勉であり、アルバートの銅像や霊廟の建設、弔慰アルバム作成などに熱心だった。1868年にはスコットランドでの夫アルバートとの思い出を綴った『ハイランド日誌』を出版した。こうした真摯な追悼の姿は共和主義を台頭させながらも王室への親近感も与えていた。共和主義者のジョン・ブライトも「女王であろうと労働者の妻であろうと愛する者を失った悲劇への同情は広くあるべき」としてヴィクトリア女王への同情を表明していた。
  • 1868年2月 保守党の首相ダービー伯爵が病気で退任し、大蔵大臣・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが後任の首相となった。ディズレーリはユダヤ人として生まれたが、幼い頃、父の判断で将来のためにイングランド国教会に改宗した。小説家として活躍し、1837年の総選挙で初当選して政界入りした。ロバート・ピール首相の穀物法廃止への反対運動を主導したことで保護貿易主義の旗手として名をあげ、ピール派が保守党を離党した後に保守党の指導的地位に上り詰めた人物である。

ハノーヴァー朝家系図

ハノーヴァー朝は、1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝。経度法の制定に始まり本初子午線をグリニッジに据えるなど、海における覇権をイギリスにもたらした。
ハノーヴァー家は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の分邦の一つカレンベルク侯領(1692年からハノーファー選帝侯領、ウィーン会議後にハノーファー王国)の君主の家系であったが、1694年にはイングランド銀行設立という国策に関わる。1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。ハノーファーではサリカ法を採り、女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。

1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバートの家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。

ヴィクトリア(イギリス女王)

ヴィクトリア(イギリス女王)が登場する作品

ヴィクトリア女王 世紀の愛

ヴィクトリア女王 世紀の愛 ヴィクトリア女王
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link ヴィクトリア女王 世紀の愛 あらすじと解説 – 世界の歴史まっぷ

DVD

資料

英国国立公文書館(TNA)

ヴィクトリア女王の即位50年(1887年)及び60年(1897年)の際に贈られた祝辞などのコレクションをまとめたオンライン展示を公開している。

Loyal Addresses

写真

【写真特集】AFP収蔵写真で振り返る、エリザベス女王の軌跡 写真27枚 国際ニュース:AFPBB News

子女

  • 第1子(長女) ヴィクトリア(ドイツ皇后)(愛称ヴィッキー)(1840年 – 1901年) – フリードリヒ3世(ドイツ皇帝)皇后
  • 第2子(長男) エドワード7世(イギリス王)(愛称バーティ)(1841年 – 1910年) – サクス=コバーグ=ゴータ朝初代英国王エドワード7世
  • 第3子(二女) アリス(ヘッセン大公妃)(1843年 – 1878年) – ルートヴィヒ4世(ヘッセン大公妃)妃
  • 第4子(二男) アルフレッド(ザクセン=コーブルク=ゴータ公)(1844年 – 1900年) – ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公爵
  • 第5子(三女) ヘレナ(イギリス王女)(1846年 – 1922年) – クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク夫人
  • 第6子(四女) ルイーズ(アーガイル公爵夫人)(1848年 – 1939年) – ジョン・キャンベル(第9代アーガイル公爵)夫人
  • 第7子(三男) アーサー(コノート公)(1850年 – 1942年) – コノート公爵
  • 第8子(四男) レオポルド(オールバニ公)(1853年 – 1884年) – オールバニ公爵
  • 第9子(五女) ベアトリス(イギリス王女)(1857年 – 1944年) – バッテンベルク公子ヘンリー・オブ・バッテンバーグ夫人

参考 Wikipedia

同時代の人物 face 井上馨(1835〜1915)

初代外務大臣。攘夷派の長州藩士として1862年に英国公使館焼き討ちに参加。翌年、ヴィクトリア女王が服喪中の英国に密航、国力の差に驚き開国派に転じた。

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