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レパントの海戦 1571年10月7日 ギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレー船が主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。

レパントの海戦

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

スペイン絶対王政の確立

レパントの海戦

レパント沖の海戦では、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍の艦隊208隻が、オスマン帝国海軍の250隻と対戦し、双方に2万人以上の死者をだした。アクティウムの海戦(紀元前31)以来の大海戦といわれ、ヨーロッパ側では、スペインがイスラーム勢力からキリスト教世界を防衛した戦いとみなされてきた。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスは、この戦いで左腕を失った。
レパントの海戦
レパントの海戦 (作者不明/National Maritime Museum蔵) ©Public Domain

レパント沖の海戦:スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍はレパント沖で、1571年10月、オスマン帝国の海軍を打ち破った。4時間の戦闘で117のオスマン帝国の軍艦を撃沈または捕獲した。

スペイン絶対王政の確立 - 世界の歴史まっぷ

参考

詳説世界史研究

背景

1570年にオスマン帝国のスルタンであるセリム2世がキプロス遠征を行い、ヴェネツィア共和国は同年にキプロス防衛のためにカトリック教国の艦隊を結集させようとしたが、スペインが消極的だったため、翌年8月にファマグスタが陥落し、キプロスはオスマン領になる。 これに危機感を抱いたピウス5世(ローマ教皇)の呼びかけに応じてスペインも動き、カトリック諸国の連合軍「神聖同盟」が結成された。神聖同盟参加諸国の艦隊は9月にシチリアのメッシーナに集結、連合艦隊を組んで東進した。10月7日、オスマン帝国艦隊と接触した連合艦隊は決戦に及んだ。

結果

オスマン帝国の大敗に終わった。海戦に参加したおよそ285隻の内、210隻が拿捕され25隻が沈没、逃走が確認されたのが25隻で残る25隻も逃走したと思われる。3万人の多くが捕虜となって奴隷となるか処刑され、戦死または行方不明者も少なくなかった。オスマン帝国艦隊側のガレー船の漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人が解放された。 この戦闘は、西欧の軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。 しかし、その後スペイン王国とヴェネチア・法王は足並みがそろわず、勝利をさらに前進させて当初の目的であるキプロス島奪還などの利益を獲得することが出来なかった。大敗と言っても、帰還時期を誤ったオスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、西欧-オスマン帝国の軍事的均衡に繋がる訳ではなかった。 オスマン帝国は艦隊の再建に取り掛かり、6ヶ月後には大艦隊の艤装を完了した。ヴェネツィアから奪取していたキプロス島の権利を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持し、地中海の西側においてもスペイン王国が制海権を確保するのはまだ先のこととなる。 小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスも参戦したが、左手に銃撃を受けたと言う。

戦争データ

年月日:1571年10月7日
場所:イオニア海
結果:カトリック教国の連合艦隊の大勝
交戦勢力
神聖同盟: スペイン王国 ジェノヴァ共和国 ヴェネツィア共和国 教皇領 サヴォイア公国 トスカーナ大公国 ウルビーノ公国 マルタ騎士団 オスマン帝国
指導者
ドン・フアン・デ・アウストリア マーカントニオ・コロンナ セバスティアーノ・ヴェニエル アゴスティーノ・バルバリーゴ ジャナンドレア・ドーリア アルバロ・デ・バサン メジンザード・アリ・パシャ マホメッド・シャルーク クルチ・アリ・パシャ
戦力
ガレー209隻 ガレアス6隻 小ガレオン26隻 補助船65隻 兵員22,000 砲1800門 ガレー213-219隻 ガレアス6-12隻 小ガレオン60隻 輸送船24隻 兵員26,000 砲2000門
損害
戦死者7650? 負傷者7785 ガレー12隻喪失 戦死者5000 捕虜25000、漕手のキリスト教徒12000 ガレー25隻沈没、ガレー170隻小型ガレオン40隻投降
16世紀なかばのヨーロッパ地図
16世紀なかばのヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

参考 Wikipedia

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