ルキウス・コルネリウス・スッラ
鼻の欠けたスッラの頭像 (グリュプトテーク蔵) ©Public domain

ルキウス・コルネリウス・スッラ

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ルキウス・コルネリウス・スッラ
紀元前138年-紀元前78年。共和政ローマ期の軍人・政治家。貴族階層の出身者として閥族派(オプティマテス)の指導者となり、かつて自らも仕えた民衆派(ポプラレス)の指導者ガイウス・マリウスと激しい内戦を繰り広げた。マリウス病死後、マリウス派を粛清する。後に独裁官となり、元老院の権限を強化し閥族派の政権を作り上げたが、マリウスの義理の甥のガイウス・ユリウス・カエサルによって閥族派は倒される。

ルキウス・コルネリウス・スッラ

カエサル ルキウス・コルネリウス・スッラ
ローマ共和政のしくみ

紀元前138年に首都ローマで上流貴族の1つであるコルネリウス氏族のスッラ家に生まれたが、スッラ家は裕福ではなかった。
青年期のスッラは自堕落な生活を送っていたが、愛人やコルネリウス氏族の親戚から財産を相続すると、自家の復興を模索し、閥族派として元老院の官職選挙に立候補する。
紀元前107年 財務官に就任。コンスルはガイウス・マリウスだった。

ユグルタ戦争

ヌミディア(ベルベル系部族が住んでいたアフリカ北部の王国。)のアドヘルバル、ヒエンプサル、ユグルタの継承者争いによる内乱で、ユグルタはヒエンプサルを殺害、アドヘルバルはローマへ逃げ込んだ。ローマは仲介するが、ユグルタはアドヘルバルとアドヘルバルに協力した多数のローマ人を殺戮さつりくしたため、ローマ元老院は紀元前112年にヌミディアに宣戦布告した。

マリウス

紀元前109年 司令官のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス(コンス、ル後プロコンスル)に、副官(レガトゥス)として参戦したガイウス・マリウスは、メテッルスとの対立によって単身帰国し、戦争の早期終結を公約にメテッルスを更迭して新たなコンスルとなった。

終結

スッラは新たな司令官となったマリウスから副将に指名され、ヌミディアへ侵攻するマリウス軍の陣営へと合流した。
マリウスがヌミディア軍を破る中、スッラはヌミディア貴族を篭絡して自陣営へ引き入れ、相手方の情報を得てはマリウスに伝える努力をし、両者の行動は最終的に敗色濃厚となったヌミディア王国内での内乱に結実し、国王ユグルタはスッラに支援されたローマ派貴族に生け捕りにされ、マリウスに引き渡され、7年に及ぶユグルタ戦争は集結した。

国内

民衆派は華々しい凱旋式を行うマリウスを歓呼の声で迎えたが、逆に敵対する閥族派は凱旋の栄誉を受けられなかったスッラの功績を高く賞賛し、ローマ国内で民衆派と閥族派の対立を過熱させた。
個人的にもマリウスとスッラを同僚から敵対者へと変化し、スッラの中では自分を登用したマリウスへの親愛より、嫉妬と野心が勝るようになり、次第にマリウスも評価していたスッラを疎ましく感じるようになった。

キンブリ・テウトニ戦争

紀元前113年から紀元前101年に行われた、民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人(チュートン人)を中心とした勢力と共和政ローマによる戦争。タウリスキ人にキンブリ人が攻撃を仕掛けた事でローマが介入した。

マリウスの軍制改革

ローマの貴族による平民政治家の蔑視、貴族層の大規模農業による中産階級の没落、それらによって生じた武器自弁による市民軍制度の崩壊により、大敗を喫したため、マリウスは、マリウスの軍制改革を実行に移し、蛮族の大軍勢を壊滅に追い込み、キンブリ人、及び彼らと同盟を結んでいたチュートン人、アンブロネス人、ティグリニ人は歴史上から消滅した。

蛮族の南下にも完勝して圧倒的な軍事的才覚を見せ付け、閥族派すら手放しで賞賛する大功を挙げる。これ以降、マリウスは計7回もの執政官当選を果たすなど、民衆派の指導者として半ば独裁的な権限を獲得した。

スッラ

ルキウス・コルネリウス・スッラは、マリウスの同僚執政官で、キンブリ族に敗退した閥族派のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス将軍の指揮下にいたため、評判を落とし、紀元前98年の法務官選挙では落選する。
スッラはマリウスへの敵意と民衆派そのものを敵対視する。

表舞台への復帰

スッラは落選した翌年の紀元前97年に再起を期して法務官選挙に立候補、再び苦戦を強いられた事から大金を投じて票を買い集め、どうにか法務官に就任した。
高位官職である法務官経験者は元老院に議席を持ち、また総督などへの就任権限を得ることができた。

法務官の任期が終わった後は法務官権限を持ってカッパドキア総督として東方属州へ赴任した。
カッパドキアではポントス王国との外交に力を入れたが、これは結果的に後々の内戦におけるスッラにとって大きな意味を持つ赴任となった。また交渉の過程でパルティア王ミトラダテス2世の使者と謁見しているが、これはパルティアとローマの最初の交流だった。

同盟市戦争

ローマの領土拡大地図
ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

link同盟市戦争

体調の不調からマリウスは総指揮官を辞し、スッラが務めた。
スッラの抜きん出た利害調整の能力は軍の掌握を可能にし、軍を掌握したスッラは軍事面で大任を果たしてユリウス市民権法の公布という政治的解決で内戦は終結した後、コンスルに選出された。

メッテラ

前後して有力貴族カエキリウス・メテッルス家の出身で、クィントゥス・カエキリウス・メテッルスの姪であるカエキリア・メテッラと結婚した。スッラは妻帯経験者で子供もおり、マリウスより年下とはいえ50歳の高年であり、露骨な政略結婚だった。
後年にメテッラが亡くなった時は、自らが発布した贅沢禁止の法律を自ら破って盛大な妻の国葬を執り行った。

ミトリダテス戦争

政治的に一線を退いたマリウスに代わって主導権を握り、紀元前88年の執政官選挙に当選、同年に東方でミトリダテス6世が挙兵して第一次ミトリダテス戦争が始まると総司令官として出征した。

マリウスのクーデター

マリウスは密かに民衆派の議員であった護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスに命じて反乱の準備を行わせた。
マリウスは既に6回の執政官叙任と2度の凱旋式というローマ史でも稀有な功績を挙げていたが、未だその野心は衰えていなかった。
スルピキウスは手勢を率いて元老院でクーデターを決行、マリウスの指揮権獲得を元老院に承認させた。

スッラのローマ占領

賊軍として窮地に立たされたルキウス・コルネリウス・スッラは、不可侵とされてきたローマに軍を向けるという前代未聞の暴挙に及んだ。
民衆派は無論、閥族派からも反発が相次いだがスッラはこれを強行、抵抗する市民を虐殺して市街地を破壊し、ローマ中心地を占拠した。
スルピキウスは殺害され、マリウスは支持者と共にローマ国外へ脱出した。スッラはマリウスへ賞金を賭けるなど民衆派へ粛清を行ったが、閥族派内でもむしろ反スッラの風潮が強かった。

体制に不安を残しつつも、スッラはミトリダテス戦争へと復帰した。スッラは苦戦を強いられながらもポントス軍を破り、ギリシャ諸都市を占領下に置く事に成功した。

マリウスのローマ占領

国内ではスッラと同じコルネリウス氏族出身の閥族派議員で、スッラから後事を託されていた紀元前87年の執政官ルキウス・コルネリウス・キンナが親マリウス派に転じて民衆派復権に動いていた。
キンナのクーデターそのものは失敗したが、騒動を知ったマリウスが北アフリカから軍勢を率いて戻り、今度は自らがローマを占領した。
コンスルに復帰したマリウスはスッラと同じく敵対派閥への粛清を行った後、更に中立派の貴族達も処刑するなどより苛烈な復讐を行った。

マリウス死去

またもや賊軍と化してしまったスッラであったが、ミトリダテス6世との戦いをまず優先して決着をつけることに専念した。
和睦で戦いが一段落ついた頃、ローマで宿敵マリウスが病没したとの報が入り、スッラはキンナが派遣した民衆派の遠征軍を撃破すると再度のローマ占領へ向けて動き出した。

紀元前83年にスッラ軍はイタリアに侵入、大マリウス・小マリウス・キンナらを相次いで失った民衆派はスッラ軍に敗れ、反対にグナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッスス、ルキウス・セルギウス・カティリナ、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスらはスッラに合流した。
翌紀元前82年に再びローマに入ったスッラはマリウス派への報復として2度目の粛清を行い、膨大な数の元老院議員や騎士を処刑した。

両者の争いは短期間に3度もの首都占領と粛清を引き起こし、ローマの多くの人材が失われる激しい内戦となった。

独裁官就任

内戦は結果的にローマ内の権威をスッラとマリウスに集中させたが、マリウスの死後はスッラが単一の実力者としてローマに君臨した。
スッラはローマに入った紀元前82年に支配体制の要として長年使用されなかった独裁官への就任を宣言した。
文字通りの独裁者として専制を敷いたスッラは閥族派の復権を図り、様々な制度変更を行い、スッラ体制はユリウス・カエサル、及びアウグストゥスによる帝政ローマの始まりまで続く最末期の共和政ローマにおける秩序となった。

他にユピテル神殿の再建やタブラリウムの建設(フォロ・ロマーノ)、ポメリウムの拡張や護民官の権力縮小、プロスクリプティオの発令による民衆派の粛清、元老院議員の定員を300人から600人に倍増するなどの政策も実施した。
他に退役兵には土地分配としてイタリアの植民市に送り込み、北イタリアのガリア・キサルピナを属州化、執政官と法務官経験者を属州総督として属州に赴任させる事(プロコンスル・プロプラエトル)も制度化した。この制度は既にマリウス時代から慣習として存在していたが、スッラはこれらを法律として明文化したという点に特徴がある。

独裁官辞任と死

紀元前80年に独裁官を辞任して同年の執政官に就任、翌年に公職を離れ、別荘で前述のメトロビウスを初めとする娼婦、男婦を妻の目も憚らずに傍において気侭に暮らした。しかし晩年に内臓器官の疾患により蛆が体に住み着く奇病を煩って急速に衰弱してしまい、程なく病没した。

死後、反対派の貴族らはその遺骸を野に晒すべきとしたが、最終的に死後の遺言に従って荘厳な葬儀が執り行われた。

スッラは少なくとも建前上は共和政と元老院の護持を唱えたが、内戦やローマ占領は後の帝政ローマ成立をマリウス共々後押ししたといえる。スッラの子孫は帝政ローマの体制でも生き残ったが(帝政期の元老院議員ファウストゥス・コルネリウス・スッラ・ルクッルスは玄孫)、ユリウス・クラウディウス朝末期にネロ帝の粛清によってスッラ家は断絶に追い込まれた。

ルキウス・コルネリウス・スッラが登場する作品

ザ・ローマ帝国の興亡

ザ・ローマ帝国の興亡 第二話 カエサル ルキウス・コルネリウス・スッラ
ザ・ローマ帝国の興亡 第二話 シーザー

linkザ・ローマ帝国の興亡 第2話 シーザー

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