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ユトレヒト条約 17世紀なかばのヨーロッパ諸国の植民地地図
17世紀なかばのヨーロッパ諸国の植民地地図 ©世界の歴史まっぷ
ユトレヒト条約 Utrecht (1713〜1714) ルイ14世(フランス王)が孫のフェリペ5世をスペイン王に即位させたことからはじまったスペイン継承戦争を終結するための一連の講和条約。フェリペ5世の王位は承認されたが、フランスとスペインの合同は認められず、逆にイギリスは、スペインからジブラルタルや同国の植民地への奴隷供給権(アシエント)を、フランスからニューファンドランドなどを獲得し、帝国形成の第一歩となった。

ユトレヒト条約

1713年4月~14年9月にわたって締結されたスペイン継承戦争を終結するための一連の講和条約。この結果、フェリペ5世(スペイン王)は王位を認められたが、フランスの王位継承権は放棄、フランスは東部国境線の保持が決った。イギリスはフランスからニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾地方を、スペインからジブラルタル、ミノルカ島を譲り受け、スペイン植民地へのアフリカ奴隷供給権 (アシエント ) を得、最大の受益国となった。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、サルジニアを獲得。サボイア家のシチリア王国の獲得、プロシアの王号承認なども決り、18世紀ヨーロッパの国際関係の大枠がほぼ確定された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

17世紀なかばのヨーロッパ諸国の植民地地図
17世紀なかばのヨーロッパ諸国の植民地地図 ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ルイ14世の政治
1700年には、孫のフェリペ5世(スペイン王)(位1700〜1724、1724〜1746)をスペイン王に即位させたことからスペイン継承戦争がおこった。この戦争で、イギリス・オーストリア、オランダなどが連合してフランスと対抗した。 1713年に締結されたユトレヒト条約では、フェリペ5世(スペイン王)の王位は承認されたが、フランスとスペインの合同は認められなかった。逆にイギリスは、スペインからはジブラルタルなどを、フランスからは、カナダの一部やニューファンドランドなどを獲得することになった。そのうえ、こうしたたび重なる戦争でフランスの王室財政は、ルイ14世(フランス王)の末期にはしだいに悪化していった。

ヨーロッパ諸国の海外進出

英・仏の植民地戦争
18世紀は、こうしてカリブ海や北アメリカでも、英・仏両国の対抗関係が続いた。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713)では、イギリスはフランスからニューファンドランドなどを、スペインからは同国の植民地への奴隷供給権(アシエント特権)などを獲得した。さらに、1739年からイギリスとスペインの間におこったジェンキンズの耳の戦争は、翌1740年からオーストリア継承戦争(1740〜1748)となり、イギリスはオーストリアと組んでフランス・スペインと対抗した。
ジェンキンズの耳の戦争
スペイン継承戦争後のユトレヒト条約で、イギリスは毎年1回だけ特許船をスペイン領アメリカに送りこみ、通商をする権利が認められていた。しかし、この権利が濫用されていると主張するスペインとの間でいざこざが絶えなかった。1738年、イギリス船の船長ジェンキンズが、会議において、かつて西インド諸島から帰港する際にスペイン官憲の臨検をうけ、片耳を切り落とされたと証言したことが一因となって、翌1739年から戦争が始まった。イギリスでは、この戦争を「ジェンキンズの耳の戦争」と呼んだ。宣伝合戦の激しかった18世紀ヨーロッパの国際関係を象徴する事件である。

参考

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