ヤゲウォ朝
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ヤゲウォ朝( A.D.1386〜A.D.1572)

ポーランド、リトアニア、ボヘミア(チェコ)、ハンガリーの王朝。1386年にリトアニア大公国の大公ヴワディスワフ2世(ポーランド王)(ヨガイラ)が、カトリックに改宗してヤドヴィガ(ポーランド女王)との結婚、ポーランド国王を兼任してヤギェウォ朝のリトアニア=ポーランド王国が誕生した。

ヤゲウォ朝

ヨーロッパ世界の形成と発展

東ヨーロッパ世界の成立

西スラヴ人の動向

13世紀末になると統一への動きが活発化し、ヴワディスワフ1世(ポーランド王)とその子カジミェシュ3世(ポーランド王)(カシミール大王 位:1333〜1370)により統一が達成された。カシミール大王はドイツ騎士団と和約を結び、貨幣改革、法典の整備、クラクフ大学の創立などを行い、王権強化に努めたが、シロンスク(シュレジエン)をベーメンに奪われ、その死後ピャスト朝は断絶した。

そのころ、ポーランドの北には、スラヴ系に近いバルト語系のリトアニア人が居住していたが、ドイツ騎士団の進出に対抗して13世紀半ばに統一され、14世紀にはヴィリニュスに都を置いたゲディミナス公ののもとで南・西ロシアの諸公国が併合され、リトアニア大公国(13世紀〜1795)となった。
1386年、リトアニア大公ヨガイラは、東のモンゴル勢力と北のドイツ騎士団の圧力に抵抗するため、カトリックに改宗してヤドヴィガ(ポーランド女王)と結婚、ポーランド国王を兼任した(ヴワディスワフ2世(ポーランド王))。

こうして、ヤゲウォ朝(1386〜1572)のリトアニア=ポーランド王国が誕生、15世紀にはドイツ騎士団をたびたび破り、さらに東方のモンゴル支配地域にも積極的に進出するなど強盛を誇ったが、その後次第に衰退し、リトアニアのカトリック化・ポーランド化を招いた。

西スラヴ人の動向 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴代君主

ヤゲウォ朝のポーランド王

ヴワディスワフ3世、ヤン1世、アンナ以外はリトアニア大公を兼ねた。

  1. ヴワディスワフ2世(ポーランド王)(1386年 – 1434年)
  2. ヴワディスワフ3世(ポーランド王)(1434年 – 1444年)
  3. カジミェシュ4世(ポーランド王)(1447年 – 1492年)
  4. ヤン1世(ポーランド王)(1492年 – 1501年)
  5. アレクサンデル(ポーランド王)(1501年 – 1506年)
  6. ジグムント1世(1506年 – 1548年)
  7. ジグムント2世(1548年 – 1572年)
  8. アンナ(ポーランド女王)(1575年 – 1586年)

ヤゲウォ朝のハンガリー王

  1. ウラースロー1世(1440年 – 1444年)=ヴワディスワフ3世
  2. ウラースロー2世(1490年 – 1516年)ボヘミア王としてはヴラジスラフ・ヤゲロンスキー(1471年 – 1516年)
  3. ラヨシュ2世(1516年 – 1526年)ボヘミア王としてはルドヴィーク・ヤゲロンスキー(1516年 – 1526年)

参考 Wikipedia

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