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ミドハト憲法
ミドハト憲法 ©世界の歴史まっぷ
ミドハト憲法 (1876〜1878) 近代化を内外に示すため、宰相ミドハト=パシャが起草したオスマン帝国最初の憲法。上下両院の議会設立などを規定したが、議会の先鋭化を危惧したスルタン・アブデュル=ハミト2世によって78年、ロシア=トルコ戦争勃発を口実に憲法を停止し、議会を閉鎖した。

ミドハト憲法

近代化を内外に示すため、宰相ミドハト=パシャが起草したオスマン帝国最初の憲法。上下両院の議会設立などを規定したが、78年、ロシア=トルコ戦争勃発を口実に停止された。

参考 世界史用語集

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

オスマン帝国の改革
このようなタンジマートは、西欧諸国による植民地化を推進し、スルタンの専制を招く結果となった。これに対し、タンジマート期に西欧の教育・思想を享受した官僚や知識人の間から専制を批判し、立憲制にもとづく改革を主張する運動がおこり、みずから「新オスマン人」と名乗った。スルタン・アブデュル=アジーズ Abdül Aziz (位1861〜76)はこれを弾圧したが、1876年のブルガリア4月蜂起をめぐって列強との緊張が高まると、スルタンは退位し、改革運動の指導者であったミドハト=パシャ Midhat Pasha (1822〜84)の起草した憲法が発布され(ミドハト憲法)、翌年議会が開催された。しかし、議会の先鋭化を危惧したスルタン・アブデュル=ハミト2世 Abdül Hamit II (位1876〜1909)は、ロシア=トルコ戦争の勃発を理由に、1878年に憲法を停止し、議会を閉鎖した。

タンジマート

ギュルハネ勅令から1876年のミドハト憲法の発布までの時期に行なわれた一連の西欧化革命を、タンジマート tanzimat (恩恵的改革)と呼ぶ。アブデュル=メジト1世は1839年11月に、外相ムスタファ=レシト=パシャ Mustafa Reshit Pasha (1800〜56)に起草させた勅令をトプカプ宮殿の庭園(ギュルハネ)において発布し、ムスリム・非ムスリムを問わず臣民の生命・財産の保障、徴税請負制の廃止と直接税の導入、徴兵制の改革、法にもとづく統治を唱えた。改革は、外圧によってしかも上から進められたものであったが、スルタンもウラマーも改革法に従うことが宣せられ、神権的なイスラーム国家から近代的法治国家への第一歩をふみだすものであった。

西アジアの動向 オスマン帝国

オスマン帝国
1683第2次ウィーン包囲失敗
1699カルロヴィッツ条約(対オーストラリア)
1716トルコ=オーストリア戦争(〜18)
1718パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30)
1744頃ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド
1768第1次ロシア=トルコ戦争(〜74)
1774キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア)
1787第2次ロシア=トルコ戦争(〜92)
1792ヤッシー条約(対ロシア)
1821ギリシア独立戦争(〜29)
1826イェニチェリを全廃
1827ナヴァリノの海戦
1829アドリアノープル条約(対ロシア)
1830フランス、アルジェリアを占領
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1833ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア)
1838イギリス=トルコ通商条約
1839ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1853クリミア戦争(〜56)
1856パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア)
1865新オスマン人協会結成
1876ミドハト憲法発布
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)
1878アブデュル=ハミト2世、憲法を停止
1878サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う
1881フランス、チュニジアを保護国化
1881スーダンでマフディー派の抵抗(〜98)
参考:山川 詳説世界史図録

参考

詳説世界史研究

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