ポーツマス条約(日露講和条約) 1905年9月

アメリカのポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。日本全権小村寿太郎外相、ロシア全権ウィッテ。ロシアは日本の韓国指導権を認め、旅順・大連の租借権とロシアの経営する東清鉄道の長春以南と付属利権を譲渡、樺太南半分割譲、沿海州・カムチャツカ半島の漁業権などを得たが、賠償金要求は放棄し、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ群衆が日比谷焼打ち事件をおこした。

ポーツマス条約

  • 合衆国のポーツマスで1905年9月に調印された日露戦争の講和条約。全権代表は、日本が小村寿太郎、ロシアがウィッテ。日本は、韓国の指導・監督権を認めさせ、遼東半島南部の租借権、南満州鉄道および付属地の租借権、樺太の南半分などを獲得したが、賠償金を獲得できなかった。

参考 世界史用語集

  • 1905年9月、アメリカのポーツマスで調印した日露講和条約。日本全権小村寿太郎外相、ロシア全権ウィッテ。ロシアは日本の韓国指導権を認め、旅順・大連の租借権とロシアの経営する東清鉄道の長春以南と付属利権を譲渡、樺太南半分割譲、沿海州・カムチャツカ半島の漁業権などを得た。賠償金要求は放棄した。

参考 日本史用語集―A・B共用

帝国主義とアジアの民族運動

アジア諸国の改革と民族運動

日露対立と列強

ロシアの東三省占領は、日本とロシアの対立を深めるとともに、イギリスやアメリカにも強い警戒の念を抱かせた。当時イギリスは、南アフリカ戦争に苦戦し、アフガニスタン・イラン方面でもロシアと鋭く対峙する情勢下で、地理的に遠い極東方面でロシアと対峙するパートナーを必要と考えるにいたった。こうして極東における利害が一致した日本とイギリスは、1902年、日英同盟 同盟外交の展開と列強の二極分化)を締結した。イギリスにとってこれは、伝統の「光栄ある孤立」の放棄でもあった。日本では、伊藤博文のようにロシアとの協調路線を説く意見もあったが 、政府(桂太郎内閣)は、日英同盟と、同じくロシアを警戒するアメリカの援助を背景に、ロシアに対する戦争準備を進めていった。一方、フランスは露仏同盟によってロシアを支援し、バルカン方面でロシアと対立していたドイツも、ロシアの関心をヨーロッパからアジアにむけさせるため、ひそかにロシアの極東政策を支援し、日本とロシアとの衝突はさけられぬ勢いとなっていった。

こうして1904(明治37)年2月、日本は仁川じんせん旅順りょじゅんのロシア艦隊への奇襲によって開戦にふみきり、日露戦争が始まった。日本軍は1905年1月、多大の犠牲の末に旅順要塞を陥落させ、3月の奉天会戦でロシア陸軍主力を破り、5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅するなど軍事的勝利を重ねたが、国力はもはや限界に達していた。一方、ロシア側も1905年1月の血の日曜日事件に始まる第1次ロシア革命 ロシア)の勃発により、戦争継続が困難な状況となっていた。こうした情勢のもとで、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの調停により、1905年8〜9月、アメリカ東海岸のポーツマス Portsmouth で講和会議が開催され、日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテの間で、ポーツマス条約が結ばれた。この条約で、日本は朝鮮半島における全面的な優越権(韓国に対する保護権)を認められたほか、遼東半島南部(旅順・大連などの関東州)の租借権、東清鉄道南満洲支線(南満州鉄道) の利権、北緯50度以南の南樺太(サハリン南半)の領有権、沿海州の漁業権などを獲得した。

ロシアが敷設した東清鉄道の支線で、ハルビンと旅順を結ぶものであるが、このとき日本が獲得したのは、長春〜旅順間の利権であった。日本は、南満州鉄道会社(満鉄)を設立して、鉄道経営のほか、沿線の鉱山開発など多角的な事業を推進した。

参考

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近代国家の成立

日露戦争と国際関係

日露戦争

かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の幹旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。アメリカのポ一ツマスで開かれた日露講和会議は、ロシア側が強い態度にでて難航したが、日本側が賠償金の要求を取り下げるなど譲歩したので、1905年9月、日本側首席全権小村寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ( Vitte, 1849〜1915)との間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。これによって日本はロシアに、(1)韓国に対するいっさいの指導·保護·監督権の承認、(2)旅順・大連の租借権と長春·旅順間の鉄道及びその付属の権利の譲渡、(3)北緯50度以南の樺太の割譲、(4)沿海州とカムチャツカの漁業権の承認などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。

こうして日本は約110万人の兵力を動員し、死傷者20万人を超すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなど、ポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。東京では河野広中こうのひろなから反政府系政治家や有力新聞 の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸・警察署・交番や講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会などを襲繋したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎖圧し、講和条約批准にもち込んだが、その後、こうした都市の民衆暴動がしばしばおこり、社会を動揺させた。

『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和条約反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相らを「露探」(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあったほどである。

参考

62.アジア諸国の改革と民族運動

62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図
62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図 ©世界の歴史まっぷ

日露戦争と日本の韓国併合

義和団鎮圧を口実に中国東北地方に大軍を送ったロシアは、事件後も撤退せず、さらに朝鮮への圧力を強めた。ロシアの進出を警戒する日本は、同様に脅威を感じたイギリスと1902年日英同盟を結んで対抗した。日本はアメリカ・イギリスの援助を受けて対ロシア強硬策をとり、1904年に日露戦争を開始し、翌05年にポーツマス条約を結んだ。この条約により、日本は韓国の指導・監督権等を得、3次にわたる日韓協約を結んで韓国の実質的支配を進めた。これに対し、韓国では激しい武装抗日闘争(義兵闘争)がおこった。しかし日本は、列強の黙認のもと、これを弾圧し、1910年に韓国を併合して日本の領土とした。

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