ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

ペロポネソス戦争

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ペロポネソス戦争

紀元前431~前404年、ギリシアのアテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した古代ギリシア世界を二分して戦った羅権を争った大戦争。

ペロポネソス戦争

同盟

デロス同盟

盟主: アテネ(アテナイ)、ペルシア戦争後の前478年、アケメネス朝ペルシアの脅威に備えてイオニア地方などエーゲ海の諸ポリスが参加した同盟。

ペロポネソス同盟

盟主: スパルタ、前6世紀末スパルタクレオメネス1世によって、アテネの羅権に反発していたペロポネソス半島の諸ポリスが参加した同盟。

ペロポネソス戦争地図
ペロポネソス戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

経過

紀元前433年

シュボタの海戦。コリントスが勝利。

紀元前432年

ペロポネソス同盟会議において、同盟諸市へのアテナイの侵略に対し和約違反を非難、開戦を決議。

紀元前431年

スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍による第一次アッティカ侵攻(ポティダイアの戦い)。
ペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイとペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。(エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、市内の治安が乱れ盗賊が横行した、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。)
アテナイ軍によるメガラ侵攻。自治権を要求するアテナイ傘下の都市アイギナに対しアテナイが軍を送り占領、全市民を追放。

紀元前430年-紀元前429年

第二次アッティカ侵攻

紀元前429年

リオンの海戦、ナウパクトスの海戦。ともにアテナイが倍以上のペロポネソス艦隊を破る。
ペリクレス病死。

紀元前428年-紀元前427年

ペロポネソス同盟軍による第三次アッティカ侵攻(ミュティレネの反乱)。レスボス島の諸市がアテナイから離反。短期間で鎮圧するが、その後も度々離反。

紀元前427年

ミュティレネの反乱鎮圧。

紀元前426年-紀元前424年

アテナイ軍による第一次シケリア遠征。タナグラの戦い (紀元前426年)。

紀元前425年

ペロポネソス同盟軍とアテナイ軍によるピュロスの戦いおよびスファクテリアの戦い。従来決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とするアテナイ軍の勝利。

紀元前424年

アテナイ軍がキュテラ島を占領。ブラシダスによるトラキア遠征。アテナイ軍がメガラへ侵攻(メガラの戦い)。アテナイ軍とボイオティア軍による ペロポネソス戦争最大の会戦デリオンの戦い。ボイオティア軍の勝利。

紀元前423年

1年間を期限とした和平条約の締結。

紀元前422年

アテナイの好戦的指導者クレオンとスパルタの主戦派の将軍ブラシダスがトラキアのアンフィポリスの戦いで共に戦死。

紀元前421年

ニーキアスの和約

和平を望むアテナイの将軍ニーキアスとスパルタ王プレイストアナクス主導の下で、ニーキアスの和約(アテナイとペロポネソス同盟による50年間を期限とした同盟条約の締結)が成立した。しかし両国共に決定された領土の返還事項を守らなかったため、ニーキアスの和平は戦争終結に至らなかった。

紀元前420年

アルゴス、アテナイ、エリス、マンティネイアによる反スパルタ四ヶ国同盟の締結。

紀元前418年

スパルタ軍とアルゴス軍によるマンティネイアの戦い。スパルタ軍の勝利。

紀元前417年

スパルタ軍によるアルゴス侵攻。

紀元前416年

アテナイ軍によるメロス攻略(メロス包囲戦)。

紀元前415年

第2次戦争

アテナイは主戦論を唱えるアルキビアデスの主導でシチリア遠征を決定し、これによって戦争が再開した。ペロポネソス同盟はアテナイへの穀物の供給地として重要なデケレイアを占領し、シチリア遠征軍の大艦隊は壊滅し、これにより、デロス同盟から諸ポリスが相次いで離反した。

紀元前414年

シュラクサイの要請を受けたスパルタが、シケリアにペロポネソス同盟軍を派遣。

紀元前413年

第四次アッティカ侵攻。シケリアに派遣したアテナイ軍が降伏。ペルシアとペロポネソス同盟の同盟締結。

紀元前412年

アテナイ市民は最後の準備資金を使って艦隊を編成。クラゾメナイがアテナイに反乱を起こす。

紀元前411年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるシュメの海戦、キュノスセマの戦い。前者は引き分け、後者はアテナイ軍の勝利。

紀元前410年

アビュドスの戦い。ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるキュジコスの海戦。アテナイ軍の勝利。ペロポネソス同盟艦隊が壊滅状態に陥る。

紀元前407年

ペルシアの資金援助によりペロポネソス同盟艦隊が再建される。

紀元前406年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるノティオンの海戦。ペロポネソス同盟軍の勝利。

紀元前406年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアルギヌサイの海戦。アテナイ軍の勝利。

紀元前405年

ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアイゴスポタモイの海戦。ペロポネソス同盟軍の勝利。アテナイ艦隊が壊滅する。アテナイ市の包囲。
アイゴスポタモイ(現トルコ領ゲリボル半島)の海戦で、将軍リュサンドロス率いるペロポネソス艦隊は、食料調達に来ていたアテナイ艦隊を壊滅させた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にアテナイへの食料供給路を断った。アテナイ市の包囲。

紀元前404年

アテナイが降伏し、 ペロポネソス戦争が終結する。

戦争の影響

三十人政権

デロス同盟の解体。アテナイでは共和政が崩壊してスパルタ人指導者の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛清を行ったが、9ヶ月でトラシュブロス率いる共和政派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。

共和政政権のもとでは、 ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスがアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死した。

デマゴーゴス

ペリクレス以後の無能な指導者をデマゴーゴス(デマゴーグ)という。無能な指導者を生み出したのは政治に無関心な民衆であり、デマゴーゴスを生み出すような政治状況を衆愚しゅうぐ政治という。

オリエントと地中海世界

ギリシア世界

ペロポネソス戦争とポリスの没落
ペロポネソス戦争とポリスの没落
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アテネがしだいに支配権を強化していったのに対して、デロス同盟に加わらず、従来からあったペロポネソス同盟を守っていたコリントスやスパルタはこれに脅威をおぼえ、コリントスとアテネの間の紛争をきっかけにギリシア=ポリスは二大勢力に分かれて長期で大規模な戦争に突入した(紀元前431年〜紀元前404年)これがペロポネソス戦争である。

はじめアテネは、ペリクレスの指導のもとに優勢であったが、田園への攻撃を逃れて市民を城壁へ籠城させる作戦をとったため疫病に襲われ、人口の3分の1を失い、ペリクレスも病死した。その後も一進一退の戦いが続き、ペルシアも介入して対立をあおった。アテネの政治をリードしたのは富裕な商人や手工業の政治家で、彼らは好戦的な民衆に迎合し、いたずらに戦争を長期化させた。彼らをデマゴーゴス(扇動政治家)と呼び、クレオンやアニュトスなどがそれであった。また貴族のアルキビアデスは無謀なシチリア遠征を提案して、アテネ軍がシチリアで全滅する事態になってついにペロポネソス側が勝利した。

アルキビアデス自身はこの遠征前に瀆神とくしんの告発をうけて敵スパルタに亡命し、アテネを破る作戦をさずけた。のちにまたアテネに帰国するなど波乱の生涯を送った。

降伏したアテネは艦隊を失い、城壁を破壊され、一時は民主政が倒れて寡頭政が成立した。エーゲ海域からシチリアまで、ほとんどのポリスが巻き込まれたこの戦争によって農地は荒廃し、ポリス内部では中下層市民の困窮化が進んだ。

戦争後、スパルタの強大化を嫌ったペルシアはアテネの復興を援助した。速やかに民主政が復活し、農民たちも自営力を回復してアテネはまた指導敵ポリスへの道を歩みだした。

アテネでは、ことに富裕な市民が公共奉仕や財産税を負担してポリスに貢献することが求められるようになった。

一方スパルタはコリントスなどの離反にあい、再びペルシアと和を結んで(紀元前386年、大王の和約)、ギリシアにおける指導権を確保しようとした。しかしテーベがしだいに勢力を強め、ペロピダスと名将エパミノンダスの指揮下にスパルタを破り(紀元前371年、レウクトラの戦い)、一時はギリシア最強のポリスとなった。

この戦いでテーベは斜線陣密集隊と騎兵を組み合わせる新戦術を用いた。

テーベはさらにスパルタ領に侵入してメッセニアを解放し、多数のヘロットを失ったスパルタは一挙に強国の座から転落した。他方アテネは第2次の海上同盟を結び、かつてのデロス同盟のような強力な支配をさけつつ再び勢力を拡大しようとした。

紀元前377年〜紀元前355年。参加約70市。同盟会議をおいた。金庫はアテネが管理したが、貢納金やアテネが駐留軍を派遣することなどはなかった。

しかし同盟市の離反にあってその試みは挫折し、テーベもエパミノンダスが戦死して衰えた。ポリス間の抗争はなおも続き、ポリス世界の混迷と衰退はおおいがたかった。

絶え間ない戦争と、一方での貨幣経済の浸透により、ポリス社会では貧富の差が拡大し、ことにスパルタでは土地所有市民が激減するというありさまであった。多くのポリスでは民主政よりも富者による寡頭政に傾き、民主政を守ったアテネでも公有地が私人の手に渡ったり、在留外国人の土地所有や市民権取得が認められたり、また非市民の不正な市民登録が増えるなど、共同体的性格の衰えが目立ってきた。そしていずれのポリスでも土地所有農民の市民軍が維持できなくなり、傭兵を用いるようになっていった。

傭兵になったのは異族民だけでなく、無産化したギリシア市民たちも多数傭兵として働くようになった。ソクラテスの弟子で歴史家のクセノフォンはペルシア王族に傭兵指揮官として雇われ、敵地から脱出する記録『アナバシス』を書いた。

ただ、これまでポリスとしての成熟が遅れていたギリシア辺境のアイトリア・アカイアなどに都市同盟が生まれ、活発な動きを示した。そしてされにその北方のマケドニアも、長く未開な部族国家にとどまっていたが、フィリッポス2世のときギリシアに勢力をのばしてきた。
アテネでは、弁論家のデモステネスが反フィリッポスの運動をおこない、アテネはテーベと同盟してフィリッポスと戦ったがカイロネイアの戦い(紀元前338年)で敗れた。フィリッポスはポリスを尊重してコリントス同盟(ヘラス同盟)を組織し、みずから盟主におさまったが、これはマケドニアによるポリス征服にほかならず、各ポリスは不戦と現状の政体や財産所有関係を変更しないことを強制された。

詳細:link ペロポネソス戦争とポリスの没落 – 世界の歴史まっぷ

参考

launch 詳説世界史研究

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