プロイセン王国 (1701〜1918) 1618年ブランデンブルク選帝侯国(首都ベルリン ホーエンツォレルン家)と東のプロイセン公国が合同して形成された王国。1701年プロイセン王国と改称。18世紀後半にフリードリヒ2世が絶対主義体制を確立して強国になった。1815年ライン川中流域を得てドイツ統一の中心勢力になり、普墺戦争・普仏戦争に勝って、1871年ドイツ帝国を建設、帝国を実質的に支配した。

参考 大辞林

  • 成立:1701年1月18日 首都:ベルリン
  • フランスによる占領:1806年10月14日
  • 国土回復:1815年6月9日
  • 立憲君主制導入:1848年12月5日
  • ドイツ帝国成立:1871年1月18日

プロイセン王国

世界史対照略年表(1300〜1800)
世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

プロイセンとオーストリアの絶対王政
三十年戦争で、長い間戦場となったドイツ各地は深刻な被害をうけた。政治的にもおよそ300の領邦(小国家)に分裂して、混乱状態にあった。しかし平和が訪れて以来、こうした状態の中からプロイセンオーストリアが台頭しはじめた。この2つの領邦は、三十年戦争の被害を比較的まぬかれていたことが、勃興のひとつの背景となっていた。 17世紀初めにプロイセン公国を併合したブランデンブルク辺境伯のホーエンツォレルン家は、ベルリンを首都として、18世紀初めから王国を形成した(プロイセン王国)。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)(位1713〜1740)のもとで、伝統的な領主貴族(ユンカー Junker)出身者を官僚・将校とする、いわば軍国主義的な絶対王政をつくりあげた。
ついで即位したフリードリヒ2世(プロイセン王)(フリードリヒ大王 位1740〜1786)も、王領地の農民を保護し、産業の育成と軍備の強化に努めた。また、オーストリア継承戦争でシュレジエン(シレジア)を獲得し、七年戦争後のフベルトゥスブルク条約で再確認させた。彼は、フランスのヴォルテールら啓蒙思想家とも親しく交わり、フランス文化に心酔してドイツ文化を嫌ったといわれる。「君主は国家の第一の下僕である」と称して、国民の福祉の増進に努めようとするなど、いわゆる啓蒙専制君主のひとりとなった。
フリードリヒ2世(プロイセン王)
フリードリヒ2世(プロイセン王)(アントワーヌ・ペスヌ 画)©Public Domain

啓蒙専制君主

ヴォルテールなどの啓蒙思想の影響をうけながら、中央集権化、近代化を推し進めた18世紀の専制君主。このような君主は、中・東欧に多く、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世などがあげられる。彼らは、啓蒙思想の影響で、一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面をもっていたが、他方では、国内の経済発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワがなお力をもっていなかった、みずから「上からの改革」に乗りださざるをえなかった。
オーストリアのハプスブルク家は1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。
18世紀なかばのプロイセン・オーストリア地図
18世紀なかばのプロイセン・オーストリア地図 ©世界の歴史まっぷ
プロイセンとオーストリアの絶対王政 - 世界の歴史まっぷ

参考

詳説世界史研究

歴代国王

概要

プロイセンは元来はドイツ騎士団が統治していたが(ドイツ騎士団国)、16世紀に東部はポーランド国王の封臣という形でホーエンツォレルン家が世俗の公として統治し(プロイセン公領)、西部はポーランド王国(後にポーランド=リトアニア共和国)領として直接に支配することになった(ポーランド王領プロイセン)。 プロイセン公を兼ねたフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)大選帝侯は大洪水時代の際に宗主をスウェーデンに鞍替えして、1656年のリビアウ条約でポーランドからの独立を獲得する。そして1660年にプロイセンを完全な独立国にさせた。その息子フリードリヒ3世(プロイセン王)はスペイン継承戦争でオーストリアに就いた見返りとしてレオポルト1世(神聖ローマ皇帝)によって王号を使うことを許され、1701年1月18日にケーニヒスベルク城で初代国王フリードリヒ1世(プロイセン王)として戴冠式を取り行った。ただし、プロイセンの東部のみしか支配していなかったことから、称号は「プロイセン国王」ではなく「プロイセンにおける王」(König in Preußen)とされた。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)は「兵隊王」の綽名が示すように軍備拡張に努める一方、迫害されたユグノーを国内に積極的に招き入れて産業を発達させ、大北方戦争でポンメルンなどを獲得して領土を拡大させた。 大王フリードリヒ2世(プロイセン王)はシュレージエン戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争で膨大な犠牲を払いながらもこれに勝利し、豊かなシレジア地方を獲得してブランデンブルク=プロイセンを一気に強国へと発展させた。1772年の第1次ポーランド分割で西プロイセンを獲得したことで、フリードリヒ2世は自らの称号を「プロイセンにおける王」から「プロイセン国王」に変えた。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)は1793年の第2次ポーランド分割でダンツィヒ、トルンを併合してプロイセンを完全に支配下に置いたのみならず、ポーランドの主要部分である大ポーランドも併合した。 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(プロイセン王)の時代、1806年8月6日に神聖ローマ帝国が崩壊したことで選帝侯位は廃され、ブランデンブルク選帝侯領はプロイセン王国へ統合されるに至った。しかし同年のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランスに大敗を喫し、翌1807年のティルジット条約で大幅に領土を削減された。その後、国内改革に取り組みナポレオン戦争に勝ち抜き、1814年のウィーン会議で領土を大幅に拡大し、ドイツ連邦の一方の盟主となった。1848年の3月革命の際、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にフランクフルト国民議会からドイツ皇帝位が授けられたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(プロイセン王)はこれを拒絶した。 ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)は1866年の普墺戦争に勝利して、オーストリア帝国を排除する形でドイツの主導権を握り、一旦は北ドイツ連邦を組織し、続く1870年の普仏戦争で勝利したことで残る南ドイツも掌握してドイツを完全に支配下に置いた。ヴィルヘルム1世はオットー・フォン・ビスマルクからドイツ帝位を薦められ、本人は乗り気ではなかったものの、皇太子フリードリヒ3世の説得により1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で初代ドイツ皇帝として即位した(ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝))。 ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)は第一次世界大戦での敗北とドイツ革命により1918年11月28日に王位を退いた。ヴィルヘルム2世は当初はドイツ帝位のみを退位し、プロイセン王位は保持しようと努めたが叶わなかった。 なお、ポーランドが西プロイセンを領有していたことから、ポーランド国王も「プロイセン国王」の称号を使用した。

プロイセンにおける王

  • フリードリヒ1世(プロイセン王)(1701年 - 1713年) 1701年1月18日に“プロイセンにおける王”として即位。
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)(1713年 - 1740年)フリードリヒ1世の息子。
  • フリードリヒ2世(プロイセン王)(1740年 - 1772年)1772年に西プロイセンを併合を機にプロイセン国王の称号を採用。

プロイセン国王

  • フリードリヒ2世(プロイセン王)(1772年 - 1786年)同上。
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)(1786年 - 1797年)フリードリヒ2世の甥。1793年の第二次ポーランド分割でプロイセンを完全に支配下に置く。
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(プロイセン王)(1797年 - 1840年)フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の息子。1806年の神聖ローマ帝国の崩壊の結果、ブランデンブルク選帝侯位を喪失。
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(プロイセン王)(1840年 - 1861年)フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の息子。
  • ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)(1861年 - 1888年)フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟。普仏戦争に勝利したことで1871年にドイツ皇帝。
  • フリードリヒ3世(ドイツ皇帝)(1888年)ヴィルヘルム1世の息子。兼ドイツ皇帝
  • ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)(1888年 - 1918年)フリードリヒ3世の息子。第一次世界大戦の敗北とドイツ革命により1918年11月28日に退位。
王位請求者
  • ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝):請求期間:1918年 - 1941年 死ぬまでにドイツ国外で住んだ。
  • ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(1882-1951):請求期間:1941年 - 1951年
  • ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン(1907-1994):請求期間:1951年 - 1994年
  • ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン:請求期間:1994年以降

参考 Wikipedia

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