ブーランジェ事件
"The taking of the Bastille". (Paul de Sémant画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
ブーランジェ事件 Boulanger (1887〜1889) 普仏戦争の屈辱的講和以来、対独復讐熱を背景に、折から不況に対する不満が重なり、対独強硬姿勢のブーランジェ将軍の解任を機に左右の急進勢力による反議会主義・反体制の大衆運動を展開。クーデタ寸前までいたる。将軍の自殺で終息。

ブーランジェ事件

ブーランジェ将軍を支持した反議会主義的な政治運動。1887年に政府が対独強硬発言などで民衆に人気のあった陸相ブーランジェを罷免すると、彼は各地の補欠選挙に立候補して当選と辞退をくりかえした。89年パリの補欠選挙で大勝すると、将軍支持派によるクーデタの噂が高まった。しかし、将軍が合法的な政権奪取を目指したため運動は挫折し、将軍はベルギーに亡命した。

参考 世界史用語集

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

ビスマルク外交
1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「栄光ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。
ビスマルク外交
ビスマルク外交による同盟網

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

列強諸国では産業の高度化にともなう急速な社会変化から国内の緊張が高まった。イギリスでは労働者の生活条件や政治的権利はしだいに改善されたが、アイルランド差別が依然として残存していたために政府に対する反発が高まった。フランスではブーランジェ事件ドレフュス事件などの第三共和制を揺るがす事件が発生した。一方、各国の労働者は労働運動や社会主義運動を進めて体制変革を志向した。イギリスでは斬新的な社会改良をめざす運動が主流であったが、フランスでは労働者の直接行動に訴える運動が盛んになった。ドイツではマルクス主義を基本綱領に採択した社会主義政党が生まれ、修正主義論争に揺れ動きながらも世界の社会主義運動の指導的地位を獲得するにいたった。
フランス
1880年代末以降、この共和国は大衆を動員する左右の急進勢力の攻撃にさらされることになった。プロイセン=フランス戦争の屈辱的講和以来国民の間に広く存在していた対独復讐熱を背景に、折から不況に対する不満が重なって、元陸軍大臣ブーランジェ将軍 Boulanger (1837〜91)を中心に左右の急進勢力による反議会主義・反体制の大衆運動が盛り上がり、クーデタ寸前までいたった(ブーランジェ事件
ブーランジェ将軍は、ビスマルク外交に煮え湯を飲まされつづけたフランスにおいて、ドイツに対する強硬な姿勢で大衆的人気を獲得した。将軍の陸相解任をきっかけに右翼王党派からボナパルト派、さらに左翼急進派まで第三共和政に不満をもつ勢力が結集し、憲法改正を求める大衆運動を展開した。将軍の自殺により運動は終息した。

帝国主義時代のヨーロッパ諸国 フランス

 フランス国内 フランス国外
1871
パリ=コミューン1870プロイセン=フランス戦争(〜71)
1875第三共和国憲法1878ベルリン会議
1881チュニジア占領
1882西アフリカでサモリ帝国の抵抗始まる(〜98)
1883ベトナム保護国化(ユエ条約)
1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)
1884清仏戦争(〜85)
1887ブーランジェ事件(〜89)1887フランス領インドシナ連邦成立
1889第2インターナショナル結成(パリ 〜1914)
パリ万博博覧会
1894ドレフュス事件(〜99)1894露仏同盟完成
1895フランス労働総同盟結成 → サンディカリズム1895フランス領西アフリカ成立
1896マダガスカル、領有
1898ファショダ事件
1904英仏協商締結
1905フランス社会党結成(ジョレス)
政教分離法発布
1905第1次モロッコ事件
1906アルヘシラス会議
1911第2次モロッコ事件
1912モロッコ保護国化

参考

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