フェリペ2世(スペイン王)
フェリペ2世(スペイン王)(アントニス・モル画/エル・エスコリアル修道院蔵)©Public Domain

フェリペ2世(スペイン王)


フェリペ2世(スペイン王)( A.D.1527〜A.D.1598)

スペインハプスブルク朝第2代国王(在位1556年1月16日 - 1598年9月13日)。メアリー1世(イングランド女王)と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世の称号を有し、1580年からは、フィリペ1世としてポルトガル国王も兼ねた。スペイン絶対王政を確立し、新大陸の植民地を含めた広大な領土を支配し、「太陽の沈まない国」と形容されスペイン絶頂期を迎えたが、オランダの独立、無敵艦隊の敗北などでスペインは没落した。

フェリペ2世(スペイン王)

絶頂期を築きながら国力衰退を誘発

世界最大の植民地をもつ「太陽の没することのない帝国」の帝王であり、スペインの黄金期に君臨したフェリペ2世。
当時のスペイン人は新大陸の「征服者」と呼ばれ、植民地の巨額の銀が王の懐に入ってきた。フェリペ2世はこの豊かな財源を、対カトリック戦争やみずからの宮廷に湯水のようにつぎこみ、なんと即位翌年の1557年以降、4度の破産宣告をしている。マドリード北西に、巨費を投じ20余年もかけてエル・エスコリアル宮殿(エル・エスコリアル修道院)を造営。華麗な大建築物の壁画は、新進画家であったエル・グレコが飾り、まさにスペインの栄華を誇る宮廷が誕生した。レパントの海戦での勝利やポルトガル併合など、勢いは止まらないかのようにみえたが、1588年にアルマダの海戦で無敵艦隊がイギリスに敗北すると、国力は弱体化していった。

エル・エスコリアル修道院
エル・エスコリアル修道院 Wikipedia

1561年にスペインの首都をマドリードと決定すると、1963年にはその郊外のエル・エスコリアルに宮殿を造営(完成は1584年)。1984年世界遺産に認定(エル・エスコリアル修道院)。

1521年にフェルディナンド・マゼランが到達した太平洋の島々は、1542年、スペイン皇太子だったフェリペ(のちのフェリペ2世(スペイン王))の名をとってフィリピンと名付けられた。
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スペインの絶頂から没落までを味わう

スペイン、ネーデルラント、アメリカ大陸の植民地、フィリピンと、父から広大な領土を引き継いだフェリペ2世は、併合したポルトガルの王位も53歳で兼任。まさに「太陽の沈まぬ帝国」に君臨した。しかし国家財政は破綻していく。父王時代からの戦費による借金と、フェリペ2世自身のおこなったオスマン帝国との戦いや旧教徒の弾圧、オランダ独立戦争(八十年戦争)などで支出がかさんだ。さらにアメリカ大陸から膨大な銀がもちこまれ、それによる浪費とインフレーションで経済は混乱。計4回の破産宣告(バンカロータ)をおこなった。反スペインを明らかにしたイギリスのエリザベス1世(イギリス女王)に対し、フェリペ2世は「無敵艦隊」を差しむけるが(アルマダの海戦)大敗を喫し、制海権も失った。治世末期には疫病による人口減もおこり、スペインは没落した。

マドリードのエル・エスコリアール修道院と王室用地
エル・エスコリアル修道院 Wikipedia

マドリード郊外にあるエル・エスコリアール修道院。1561年、マドリードに遷都したフェリペ2世が建設した壮麗な修道院である。

フェリペ2世(スペイン王)
フェリペ2世(スペイン王)(アントニス・モル画/エル・エスコリアル修道院蔵)©Public Domain

フェリペ2世は几帳面な性格で「書類王」「慎重王」とも呼ばれるが、その治世にスペイン文化は大きく開花した。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

イタリア戦争

スペイン王カルロス1世が皇帝選挙でカール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)となると、1521年イタリアに軍を進め、フランスとの間にイタリア戦争(1494〜1559)が展開された。フランスが敗れると、神聖ローマ軍によるローマの略奪がおこなわれ、教皇を屈服させた(ローマ劫掠)。フランソワ1世(フランス王)はその後もイギリスやオスマン帝国と結ぶなどしてイタリアでの戦争を続けた。しかし、1544年のクレピーの和約でイタリアにおけるドイツの優位が確立、フランソワの死(1547)とアンリ2世(フランス王)(位1547〜1559)とフェリペ2世(スペイン王)の間に結ばれたカトー・カンブレジ条約(1559)で、フランスはイタリア支配を断念し、イタリア戦争は終わりをつげた。

イタリア戦争 – 世界の歴史まっぷ

宗教改革

イギリス国教会の成立

イギリス(イングランド)では、バラ戦争の終結後成立したテューダー朝のもとで中央集権化が進められ絶対王政が成立した。伝統的な信仰にとらわれている広範な民衆がいる一方、ルターの改革思想に共鳴し、また教皇のイギリス教会支配や教会による富の保有に批判的な国民意識も醸成じょうせいされつつあった。イギリスの宗教改革は、絶対王政の政治的・経済的利害に動かされたものではあったが、イギリスの国民意識や利害感情のうえにたち、国内でこれを支持する人々も多くいたのである。

ヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)は伝統の信仰に忠実で、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられていた。彼は、兄の死後その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリンを妃に迎えたが嫡子に恵まれず、彼女と離婚し、宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望んだ。しかし、スペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世(神聖ローマ皇帝)の伯母でもあるキャサリンとの結婚の解消は、教皇の承認をえられなかった。

結婚問題について別の解決を求めたヘンリー8世(イングランド王)は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリ大司教にし、アンとの結婚の合法性を認めさせた。これに対し教皇が破門をもって応えると、1534年国王至上法(首長法)を発布し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とし、ローマから分離したイギリス国教会を成立させた。これに反対した『ユートピア』の著者として名高いトマス・モアらは処刑された。さらにヘンリー8世は、王の首長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加えたばかりでなく、さらにその財産奪取を目的に修道院を解散させた。修道院の財産の没収によって、王室の財政基盤は強化された。教会組織としてはカトリックから独立していたが、イギリス国教会は教義や儀式などの点で、カトリックの伝統を多く残していた。当時イギリスでは、教皇の権威の復活を望むカトリックもいたが、教義や儀式では根本的改革は望まず、ただイギリスの教会を教皇の支配から切り離すことで満足していた人々が多数を占めていた。しかし、大陸の宗教改革のように、教義その他でいっそうの改革を進めようとする人々もいた。

次のエドワード6世(イングランド王)(位1547〜1553)の時代、英語で書かれた共通祈祷書や信仰箇条が制定され、国教会にもカルヴァン派の教義がとりいれられたが、それは旧教と新教の中間的な特色をもつものであった。エドワードのあと即位したメアリ1世(イングランド女王)(位1553〜1558)は離婚されたキャサリンの娘であった。彼女はカトリックを復活し、ローマとの関係を回復し、旧教国スペインの王子フェリペ(のちのフェリペ2世(スペイン王))と結婚した。反カトリックの「異端」に対する厳しい弾圧は「ブラッディ・メアリー」の名を残し、イギリス人の間に反教皇的な傾向を助長させることとなった。

不人気なメアリー1世(イングランド女王)の死後、1558年アン・ブーリンの娘エリザベス1世(イングランド女王)(位1558〜1603)が即位した。彼女は国王至上法を復活し、統一法で共通祈祷書の使用を義務づけ、儀礼・礼拝の形式を定め、イギリスを再び国教会にもどした。さらに1571年、39カ条の信仰箇条が定められた。これが現在でもイギリス国教会の教義の綱領こうりょうの役目を果たしている。

イギリス国教会の成立 – 世界の歴史まっぷ

スペイン絶対王政の確立

こうしてカルロス1世(スペイン王)は、ネーデルラントのブルゴーニュ公領をはじめ、ヨーロッパ大陸に広大な領土を獲得した。また、プロテスタント派諸侯の抵抗を排しながら、キリスト教世界の統一をねらってイタリア戦争( イタリア戦争)を続けた。しかし、1556年には王室財政が破綻したため、退位せざるをえなくなった。皇帝位は弟フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)(位1556〜1564)がつぎ、スペインの王位は息子のフェリペ2世(スペイン王)(位1556〜1598)に譲った。

即位後のフェリペ2世は、1559年にカトー・カンブレジ条約を結んで、長期にわたったイタリア戦争に終止符をうった。

しかし国内では、とくに外国書籍の輸入禁止や出版規制をおこなうなど、異端の弾圧を強化した。また外にむかっても、宗教戦争下のフランスに介入したほか、カトリック教徒でフェリペの妻であったメアリ1世の後継者として、プロテスタントのエリザベス1世(イングランド女王)が登位したイギリスとも、険悪な関係となった。

フェリペ2世(スペイン王)
フェリペ2世(スペイン王)(アントニス・モル画)©Public Domain

スペイン絶対王政を代表する国王で、同時に16世紀後半のカトリック勢力の指導者であった。しかし、新教徒の弾圧は、国内産業の発達を阻害し、ネーデルラントの反乱を招いた。

しかしこの時代に、スペインの最大のライバルとなったのは、ビザンツ帝国を滅ぼして地中海に進出してきたオスマン帝国 オスマン帝国の拡大)である。カルロス1世以来、キリスト教(カトリック)世界とヨーロッパの盟主を自認していたスペインにとって、オスマン帝国との対決はさけられない宿命であった。フェリペ2世は1571年、オスマン帝国をレパントの海戦で破り、地中海の制海権を握って対抗宗教改革 カトリックの改革)を推進するカトリックの盟主となった。

レパントの海戦

レパント沖の海戦では、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍の艦隊208隻が、オスマン帝国海軍の250隻と対戦し、双方に2万人以上の死者をだした。アクティウムの海戦(紀元前31)以来の大海戦といわれ、ヨーロッパ側では、スペインがイスラーム勢力からキリスト教世界を防衛した戦いとみなされてきた。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスは、この戦いで左腕を失った。

レパントの海戦
レパントの海戦 (作者不明/National Maritime Museum蔵) ©Public Domain

レパント沖の海戦:スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍はレパント沖で、1571年10月、オスマン帝国の海軍を打ち破った。4時間の戦闘で117のオスマン帝国の軍艦を撃沈または捕獲した。

もともとスペインでは、牧羊者組合(メスタ) スペインとポルトガル)が力をもち、それが生産する羊毛を使って都市に毛織物工業が展開していたが、アメリカで銀が発見されて以後は、ほとんどこれに頼るようになった。16世紀中ごろ、水銀を用いる画期的な銀鉱石の処理方法が導入されたこともあって、ペルーのポトシ銀山、メキシコのサカテカス銀山を中心に銀の生産が急増し、スペインの繁栄も頂点に達した。

しかし、ネーデルラントに独立運動がおこり、この鎮圧のために膨大な戦費を要するようになった。そのうえ、やがてアメリカからの銀の供給も減少してしまったため、スペインの繁栄は長くは続かなかった。

スペイン絶対王政の確立 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

子女

  • カルロス(アストゥリアス公)1545年7月8日 – 1568年7月24日
  • イサベル・クララ・エウヘニア 1566年8月12日 – 1633年12月1日 ルドルフ2世(神聖ローマ皇帝)の弟アルブレヒト・フォン・エスターライヒ(1559-1621)の妃
  • カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア 1567年10月10日 – 1597年11月6日
  • フェルナンド・デ・アウストリア(1571-1578) 1571年12月4日 – 1578年10月18日 アストゥリアス公
  • ディエゴ・デ・アウストリア 1575年7月12日 – 1582年11月21日 アストゥリアス公
  • フェリペ3世(スペイン王) 1578年4月14日 – 1621年3月31日 ポルトガル王、ナポリ王、シチリア王を兼ねる

参考 Wikipedia

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