ハンニバル
ハンニバルの胸像(イタリアのカプアで発見) ©Public domain

ハンニバル

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ハンニバル (紀元前247年 – 紀元前183年/紀元前182年)

カルタゴの将軍。第2次ポエニ戦争を開始した。連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも、その戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど、戦術家としての評価は非常に高い。

ハンニバル

ローマ軍を追い詰めたカルタゴの天才的智将

紀元前3世紀、ローマと北アフリカの大国カルタゴとの間で、3回の戦争(ポエニ戦争)が勃発した。イタリア半島統一を成し遂げたローマ(共和政ローマ)が、地中海の覇権をめぐって対外に乗り出した第一歩ともいえた。

ハンニバル戦役と呼ばれる第2回ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前201年)で、ローマを幾度となく叩きのめした天才的な智将がハンニバル・バルカであった。紀元前218年、イベリア半島にいた29歳のハンニバルは、ガリアを横切り、陸路を伝って北からのイタリア侵入を試みる。5万の歩兵と30頭の象の大軍を率いて、前代未聞のアルプス越えを敢行したのだ。山中では雪がちらつく9月、象は暴れ、怖気づく者も多い。疲労や転落事故で約半数の兵を失いながらも、ハンニバルは彼らを叱咤激励しったげきれいして士気を高めた。その途上、ガリア人を味方につけながら、ついにイタリアに到達。ハンニバルはイタリア各地で猛攻を繰り広げ、ローマは危機的状況に陥るのだった。

略年表

  • 紀元前247年 カルタゴに生まれる
  • 紀元前221年 軍総司令官に就任
  • 紀元前218年 アルプス山脈を超える(第2回ポエニ戦争開始〜紀元前201年)
  • 紀元前216年 カンネの会戦で勝利
  • 紀元前202年 ザマの会戦で敗北
  • 紀元前195年 シリアへ亡命
  • 紀元前190年 ビチニアへ亡命
  • 紀元前183年頃 ビチニアで自殺
ハンニバル
アルプス越えのハンニバル軍(アルプス越えのハンニバル軍画)©Public Domain
カンネの会戦:イタリア南部のカンネの会戦で、ローマは最大の大敗を喫した。ローマ軍の犠牲者は7万兵、ハンニバル軍の犠牲者は6千兵だった。

参考

launch ビジュアル 世界史1000人(上巻)

ポエニ戦争で活躍したカルタゴの英雄

古代カルタゴは、フェニキア人が北アフリカ(現チュニジア)につくった植民市。海洋国家として栄え、地中海西部一帯に覇権を広げていた。拡張政策をとる共和政ローマと激突したのが3回にわたるポエニ戦争である。
第一次ポエニ戦争(紀元前264年-紀元前241年)の将軍を父にもつハンニバルは、第二次ポエニ戦争(紀元前219年-紀元前201年)の指揮官となった。ヒスパニア(現スペイン)で兵をまとめ、陸路でローマに攻め込んだ。アフリカゾウに乗って冬のアルプス山脈を越え、北イタリアへ入るという驚愕の作戦をとったハンニバルは、ローマ軍を蹴散らし、カンネーの戦いでは大勝利を収めた。
しかし戦争が長期化すると、武器は不足し兵力は疲弊する。折しもカルタゴ領ヒスパニアは、ローマのスキピオに虚をつかれ、撃滅された。ハンニバルは本国へ急遽戻ったが、ザマの戦い(カルタゴの南西)で大敗し、屈辱の講和を結ぶに至った。その後は内政に勤しんだハンニバルであったが、政敵の謀略にはまって亡命。自殺による不遇な死を遂げた。

参考

ハンニバルが登場する作品

マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス ローマ史上最強の敵 ガーディアン ハンニバル 戦記 ハンニバル
Hannibal: Rome’s Worst Nightmare

link ローマ史上最強の敵 ガーディアン ハンニバル戦記 – 世界の歴史まっぷ : ローマ帝国を震え上がらせた英雄 ハンニバル の生涯を描いたスペクタルアクション。紀元前218年、地中海を拠点にする小国・カルタゴの若き将軍・ハンニバルは、10万の兵と37頭の戦闘巨像を従えてローマ帝国へと進軍、時の巨大帝国を驚愕させる。

同時代の人物 face 青銅器の流行

弥生時代、大陸から北九州にもたらされた青銅器は、武器や祭器、装身具として用いられ、使用者たちの権威づけに使われていた。北九州の遺跡群から集中的に発見されている。

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