クレマンソー
クレマンソー(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

クレマンソー Clemenceau (1841〜1929)

国民を鼓舞し、第一次世界大戦を勝利に導いたフランス首相(在任1906〜1909, 1917〜1920)。パリ講和会議ではドイツへの厳しい制裁を求め、フランスの地位回復に努めた。

クレマンソー

国民を鼓舞し、第一次世界大戦を勝利に導いたフランス首相(在任1906〜1909, 1917〜1920)。パリ講和会議ではドイツへの厳しい制裁を求め、フランスの地位回復に努めた。

参考 世界史用語集

第一次世界大戦を勝利に導いた

「虎」と渾名あだなされた、第一次世界大戦末期フランスの首相。独裁的に反対派を弾圧し戦争を遂行。パリ講和会議ではフランス代表として自国の権益保護を主張し、ドイツの過酷な要求を突きつける。「ドイツを睨み立ったままの姿勢で埋葬せよ」の遺言通りに葬られた。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

合衆国の参戦と戦争の終結

ドイツの軍部独裁政府が1917年2月無制限潜水艦作戦の開始 を声明したため、アメリカは民主主義の擁護を掲げて4月にドイツに対して宣戦布告した。ロシアでは、ソヴィエト政府は同盟側が休戦協定を結び講和交渉を始めた。

同じころ、交戦各国の国内でも平和を求め政府を批判する声が高まった。ドイツでは、帝国議会の多数派が1917年7月に交渉による講話を決議するなど帝政の民主化を求める運動が激化したが、軍部と保守派は軍部独裁を強化することで対抗した。フランスでも対独強硬論のクレマンソー内閣が成立して、挙国一致体制を再構築した。

パリ講和会議とヴェルサイユ条約

1919年1月、パリで連合国27カ国代表による講和会議が開催された。会議関係者総数1万人におよぶ史上最大規模の国際会議では、軍人ではなく政治家が主役となり、各国の議会の意向や世論、国民の動向が大きな影響を与えた点でも画期的であった。講和の枠組みはアメリカウィルソン大統領 Wilson (1856〜1924)が1918年1月に提案した十四カ条とされ 、また米・英・仏・イタリアと新たに指導的大国と認められた日本の五大国が全般的主導権をもつことを認められた。とはいえ、日本はヨーロッパ内の諸問題に切実な関心がなく、またイタリアのオルランド首相 Orlando (1860〜1952)も領土要求がれられないとして会議を一時離脱するなどの行動をとったため、結局、米のウィルソン、英のロイド=ジョージ Lloyd George (1863〜1945)、仏のクレマンソー Clemenceau (1841〜1929)の三首脳間の協議が決定的な重みをもつことになった。この3国はロシア革命の波及阻止などでは共同行動をとったが、フランスが自国の安全保障問題にこだわり、イギリスは戦前の地位への復帰を求めて国際経済の再建を重視し、アメリカは十四カ条遵守に固執するなど、それぞれの目的や思惑に違いがあった。

イギリスとフランス ドイツ
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