クレオパトラ7世
絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ(ジャン=レオン・ジェローム画)©Public Domain

クレオパトラ7世


クレオパトラ7世 (紀元前69年 – 紀元前30年8月12日)

古代エジプトプトレマイオス朝最期のファラオ。弟のプトレマイオス13世と結婚してエジプトを共同統治し、強大なローマとの同盟が唯一エジプトの存続の道であると考えた。カエサルの子を産み、カエサルの死後はアントニウスと結婚して東方属州の専制支配を目論んだが、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍はオクタウィアヌスに敗れ、最期はコブラに自身を咬ませて自殺する。

クレオパトラ7世

儚く散ったエジプトを守ろうとする夢

クレオパトラが弟のプトレマイオス13世と結婚し共同統治を始めたのは17歳。ローマが巨大化し、エジプトを併合しようとする時代であった。
ローマの内戦のファルサルスの戦いで敗れたグナエウス・ポンペイウスを追ってガイウス・ユリウス・カエサルがエジプトに入ると、クレオパトラは勝負に出て裸体のまま絨毯にくるまり、従者にカエサルの部屋へ、自らを運ばせた。
カエサルはたちまちクレオパトラの虜になった。クレオパトラはカエサルの子どもを身ごもり、プトレマイオス朝女王としてローマに呼び寄せられることに成功した。
ところが程なくカエサルは暗殺される。クレオパトラは次なる実力者のマルクス・アントニウスに近づき、またもや円熟の美貌で魅了した。
結婚したアントニウスとともに、東方属州の専制支配を始めようと目論んだが、その結果オクタウィアヌスと決定的に対立。
アントニウスとエジプト連合軍は破れ、クレオパトラはコブラに自身を咬ませ自殺し、エジプト王朝は滅亡した。

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カエサルを魅了したエジプト最後の女王

敗走するグナエウス・ポンペイウスを追ってエジプトにやってきたユリウス・カエサルのもとに、ある日、高価なプレゼントが届いた。それは、船で運ばれてきたカーペットの中から、半裸に近い艶かしい姿で現れた女王クレオパトラ7世であった。その意表をついた出現に、カエサルの心はとらえられてしまう。

エジプトのプトレマイオス王家に生まれたクレオパトラは、18歳のときに、弟との共同統治で女王となった。だが、側近たちの陰謀によって追放の憂き目に。そこに現れたローマの英雄カエサルに、わらにもすがる思いで救いを求めた。クレオパトラは美しいだけではなく、数カ国語を操り、機知に富んだ才色兼備の女性であった。

やがて、2人の間に生まれた息子カエサリオンを伴って2人はローマに凱旋帰国する。エジプト女王であると同時に、ローマ最高権力者の愛人となったクレオパトラは、豪邸に住み、わが世の春を謳歌した。だが、カエサル暗殺という思わぬ事件で、彼女の野望は砕け散るのだった。

クレオパトラのイメージ:黒髪のボブがクレオパトラスタイルだが、実際には褐色でウエーブのかかった長い髪。わし鼻でギリシア風の顔立ちだった。

カエサリオン

カエサリオン(紀元前47〜紀元前30)は、クレオパトラが生んだユリウス・カエサルとの遺児といわれている。正当な後継として認めさせるため、弟のプトレマイオス14世の死後、クレオパトラは自らが摂政となって3歳のカエサリオンを王に即位させた。だが彼女の死後、オクタウィアヌスによって処刑される。

右図は、ハトホル神殿の壁画に描かれたカエサリオン(エジプト、ナイル川東岸のデンデラ遺跡)。

カエサリオン
ハトホル神殿の壁画に描かれたカエサリオンWikipedia
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生涯

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ローマの領土拡大地図©世界の歴史まっぷ

紀元前51年 – 紀元前30年8月12日

妹・ベレニケ4世処刑

クレオパトラが14歳の紀元前55年、父と姉ベレニケ4世は王位を巡って争い、父がローマの支援を得て勝利して姉・ベレニケ4世を処刑した。

弟・プトレマイオス13世と共同ファラオに

紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が死亡したが、父の遺言とプトレマイオス朝の慣例にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就いた。

共和政ローマの元老院派を支援

紀元前49年、共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との間で内戦が勃発した。
クレオパトラ7世は父王時代からの繋がりで元老院派を支援した。ポンペイウスの子小ポンペイウスがアレクサンドリアを訪れてクレオパトラ7世に兵員と食料の協力を要請した時、女王は小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。

弟・プトレマイオス13世のクーデター

紀元前48年春、ローマからの独立を標榜(ひょうぼう)するプトレマイオス13世派は、このクレオパトラ7世の動きに不信を募らせ、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラ7世に対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラ7世を東部国境のペルシオンへと追いやった。ポンペイウスはファルサルスの戦いにカエサルに敗北した後にエジプトに上陸したが、9月29日にプトレマイオス13世派に殺害された。

カエサルと出会う

紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためにエジプト入りしたカエサルと出会い、愛人となる。

弟・プトレマイオス13世敗死

プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはその時ちょうどエジプトへ到来したローマ軍を使って、紀元前47年のナイル川の戦いでプトレマイオス13世派を制圧し、プトレマイオス13世をナイル川で溺死させた。

妹・アルシノエ4世幽閉

プトレマイオス13世と結託してクレオパトラ7世と敵対していた妹アルシノエ4世は捕らえられてローマへ送られ、紀元前46年にローマで催されたカエサルの凱旋式で引き回された。カエサルの意向により死刑を免れ、クレオパトラの脅威とならないようエフェソスの居宅に幽閉された。

弟・プトレマイオス14世と結婚、共同統治

プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治を再開した。クレオパトラは紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んだといわれる(カエサル父親説については異論もある)。プトレマイオス14世との共同統治はカエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際にはクレオパトラ7世が単独で統治していた。カエサルの傀儡政権であったともいえる。

カエサルの死

紀元前44年にカエサルが暗殺される。

カエサルの後継者

クレオパトラ7世は、嫡子のいないカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたと思われるが、カエサルは庶子に当たるカエサリオンを後継者に指名してはいなかった。
紀元前46年、既にカエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスを後継者と定め、遺言書を遺していた。

弟・プトレマイオス14世の死

カエサルの死で、クレオパトラ7世がローマからエジプトに帰国した頃、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡する(死因不明、クレオパトラによる毒殺説もある)。

息子・プトレマイオス15世と共同統治

クレオパトラ7世は幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。

アントニウスと出会う

紀元前42年のフィリッピの戦いでは第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。
戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。
これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。アントニウスはエジプトに近いシリアなどの東方地域では勢力を維持しており、クレオパトラ7世と良い関係を作ることは、アントニウスにとって好都合であったことは事実である。

妹・アルシノエ4世を殺害

アルシノエ4世は小アジアのエフェソスにあるアルテミス神殿に聖域逃避していたが、クレオパトラ7世はアントニウスに頼んで殺害させた。

アントニウスと結婚

マルクス・アントニウスとの間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポスが誕生した。
アントニウスはクレオパトラ7世の支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。その後でオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚した。クレオパトラ7世とアントニウスは結婚した。
アントニウスは紀元前34年に再度東方遠征を行いアルメニア王国(アルタクシアス朝)を攻撃して国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。

ローマ対エジプト

アレクサンドリアに戻ったアントニウスはローマではないこの地で大々的に凱旋式を挙行した。そのうえ、アントニウスはエジプトでの埋葬を希望するなど(アントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが元老院で読みあげたもので、真偽は定かではない)、ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、オクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告した時、この戦いは私闘ではなく、「ローマ対エジプト」という構図にされていた。

アクティウムの海戦

紀元前31年、アントニウス派およびプトレマイオス朝の連合軍と、オクタウィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する(アクティウムの海戦)。
この海戦の最中にクレオパトラ7世は戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ7世の船を追って逃亡、ともにアレクサンドリアへ戻った。結局、アントニウス派およびプトレマイオス朝の連合軍は、追跡してきたオクタウィアヌス軍に敗北を喫する。アントニウスは部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑されることになった。

帰国したクレオパトラ7世はオクタウィアヌスとの外交交渉を試みるものの、条件面などで折り合いがつかず失敗に終わった。この結果、カエサリオンを国外へ逃がすことを決意し、実行に移した。しかし、ローマ軍はアレクサンドリアにまで到達し、アントニウスは残存する全軍を率いて決戦を挑むが、海軍の寝返りなどで失敗した。

アントニウス敗死

アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。

クレオパトラ自殺

オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。

息子・カエサリオン処刑

エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。しかし、クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育された。

同時代の人物

弥生人

狩猟民族だった縄文人の後に登場した日本人。水筒農業を営む農耕社会で、金属器や赤褐色の弥生式土器を使用し、独自の弥生式文化を編み出した。その期間は数百年間に及んだ。

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