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ギリシア独立戦争 (1821〜1829) オスマン帝国の支配からの解放を求めてギリシア人がおこなった戦争。イプシランティ率いる秘密結社ヘタイリアが蜂起し、オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス島の残虐事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立を支援。1829年ロシアとオスマン帝国間でのアドリアノープル条約によりギリシアの独立が認められた。

ギリシア独立戦争

オスマン帝国の支配からの解放を求めてギリシア人が行なった戦争(1821~29)。オデッサの秘密結社「フィリキ・エテリア」の首領A.イプシランディスによるバルカン諸民族の一斉蜂起の呼びかけをもって開始された(21)。蜂起は、期待されたロシアの援助や、他のバルカン諸民族による組織軍が到来せず、ともに蜂起したルーマニア人との間に軋轢が生じて失敗し、ギリシア人住民の虐殺というオスマン帝国の報復を招いた。1822年国民会議が開かれ、独立を宣言したが、各地の指導者の割拠主義的傾向のため内乱が起り、25年にはイブラーヒーム・パシャに率いられたエジプト海軍がオスマン帝国に加勢してメソロンギオン、アテネなどを陥落させた。しかしこの間にイギリス、フランス、ロシア列強が介入し、27年10月ナバリノの戦いでオスマン帝国=エジプト連合艦隊を撃破するに及び、事態は一転し、ギリシア人の運動が強化された。オスマン帝国の立場は露土戦争(28~29)によってさらに弱まり、29年9月アドリアノープル和約によってギリシアの自治を認めた。ギリシアはさらにロンドン会議(30)の決定に基づき列強の保護下に王国として独立することになり、オスマン帝国もイスタンブール条約(32)でこれを正式に承認した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ギリシア独立戦争
オスマン帝国支配からの独立を目指したギリシアの戦い。1822年、ギリシア独立を目指す国外の秘密結社が蜂起して独立を宣言。25年、オスマン帝国が鎮圧のためエジプトに派兵を要請すると、26年からイギリス・フランス・ロシアがギリシアを支援して介入した。オスマン帝国が列強に敗れ、ギリシアは29年に独立を実現した。

参考 世界史用語集

ナショナリズムの精神は、当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアにおいても高揚した。19世紀初め、イプシランティ A.Ypsilanti (1792〜1828)率いるヘタイリア Hetairia が結成され、ギリシアの独立をめざしたが、1821年になって武力闘争に発展した。オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス(シオ)島の残虐事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立運動支援にまわり、G.カニングの仲介によって同盟を結成した。1827年の英・仏・露の三国艦隊によるナヴァリノの海戦 Navarino が勝利に終わったことは、ギリシアの独立を確実なものとした。
ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
また西欧諸国では、知識人を中心にギリシアは文化の故郷という意識があったので、イギリスの熱情詩人バイロン Byron (1788〜1824)のように義勇軍として参戦するものも現れた。フランスのロマン派画家ドラクロワ Delacroix (1798〜1863)は「キオス島の残虐」を描いて世論の独立支持に貢献した。一方、オスマン帝国は同じ複合民族国家であるオーストリアのメッテルニヒに支援を期待したが、えられなかった。 こうした情勢のもと1829年ロシアとオスマン帝国間でアドリアノープル条約 Adrianople が締結され、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通航権の確保や領土の割譲をオスマン帝国に強制しながら、ギリシアの独立が両国間で認められた。翌30年ロンドン会議 London が開催されて国際的認証がなされ、1832年、バイエルンの王子オットーが国王としてむかえられ、ギリシア王国が成立した。しかし領土はペロポネソス半島に限定されたため、ギリシア人のあいだには不満が残った。
ロシアがカフカス南部やボスフォラス・ダーダネルス両海峡の自由通航権を獲得し、三国同盟条約(1827)やロンドン議定書(1829)に同意するというかたちで、ギリシアの独立を承認させた。

参考

詳説世界史研究

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