キエフ大公国
11世紀末のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

キエフ大公国 (882年〜1240年)
現ウクライナのキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシで、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。

  • 882年: 建国
  • 988年: キリスト教の導入
  • 1037年: 聖ソフィア大聖堂の建立
  • 1132年: 戦国時代
  • 1240年: モンゴル来襲、キエフ陥落

キエフ大公国

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ヴァイキングの活動
ノース人・デーン人と並ぶスウェード人は、7世紀以来スウェーデン南部のメーラル湖のビルカからバルト海東南岸やゴトランド島を結ぶ交易網をもっていたが、9〜11世紀のいわゆるヴァイキング時代には北西ロシアに進出し、スラヴ人やフィン人との交易や略奪により毛皮・奴隷などを手に入れた。そして、西欧諸国とガラス・陶器・毛織物などで取引したほか、遠く東ローマ帝国やアラブ・イスラーム世界ともドニエプル川やヴォルガ川を経由して取引を行い、東ローマ帝国の絹やアラブ銀貨を獲得した。
またスウェード人はロシアの起源をなすノヴゴロドやキエフの国家形成にも関わった。伝説によれば、862年部族同士の抗争に苦しむ東スラヴ人は、ルーシ(スウェード人の一派。ロシアの古名になったともいわれる)のもとに自分たちの支配者を求める使者を送り、リューリクを招いてノヴゴロド国を建設し、混乱をおさめたという。
ヴァイキングの侵入地図
ヴァイキングの侵入地図 ©世界の歴史まっぷ

リューリクの死後、その遺児イーゴリを奉じたオレグ(キエフ大公)が後を継ぎ、さらに南下してドニエプル川中流の都市国家キエフを占領した(882)。リューリクの物語は伝説的要素が濃いものの、オレグの実在は東ローマ帝国の文献でも確認されている。
いずれにせよ、オレグのもとで南北の東スラヴ人は統合され、全ロシア的なキエフ公国(キエフ・ルーシ)が誕生することになった。しかし、他のノルマン国家と同様、キエフ公国のノルマン人もまもなくスラヴ化していった。

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東ヨーロッパ世界の成立

東スラヴ人の動向
スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図
スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図 ©世界の歴史まっぷ
11世紀のヨーロッパの地図
11世紀末のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

東方ロシアに拡大した東スラヴ人は、バルト海と黒海・カスピ海を結ぶ交通の要衝ノヴゴロドやキエフを中心に、9世紀ころまでにいくつかの小国家を建設していたが、882年のノヴゴロドから南下したヴァイキングのオレグ(キエフ大公)がキエフを占領すると、統一国家キエフ公国が成立した。遠征と貢税支配に依拠した初期のキエフ公国では、イーゴリ1世(キエフ大公)(位:912〜945)とスヴャトスラフ1世(キエフ大公)(位:945〜972)の時代に外征を繰り返し、たびたびビザンツ領を荒らしたほか、南ロシアのハザール国やブルガリア帝国に打撃を与えた。
次のウラディミル1世(キエフ大公)(位:980〜1015)は、一族を各地に封じて土着勢力を抑えるとともに、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚、ギリシア正教を国教と定め(988/989)、国家支配の強化に努めた。

その子スヴャトポルク1世(キエフ大公)(位:1019〜1054)の時代に領土はさらに拡大、ビザンツ文化を積極的に摂取し、絶頂期を迎えた。折しも、ビザンツ帝国に征服されたブルガリアの聖職者が多数亡命してスラヴ語典礼を伝えたことは、キエフ公国のキリスト教化に大きな役割を果たすことになった。だが、繁栄の陰で次第に諸公国の自立化傾向が強まり、それとともに農民の農奴化も進んだ。こうして大公権による公国統一は名目的なものとなり、ウラジーミル2世モノマフ(キエフ大公)(位:1113〜1125)の治世を最後に分裂状態は一層深まった。13世紀半ば、バトゥの率いるモンゴル軍の攻撃を受けてキエフは荒廃(1240)、ロシア諸公国はバトゥの建てたキプチャク・ハン国(1243〜1502)に貢納し、以後250年にわたりモンゴル支配に屈することになった(タタールのくびき)。

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参考

launch 詳説世界史研究

歴史

現ウクライナのキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシで、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。
10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌ないこうと隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲(モンゴルのルーシ侵攻)によってキエフは落城し、事実上崩壊した。

国号

近世時代以後ルーシの政治的・文化的遺産をめぐって東欧諸国が争ったことから、現在の学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術用語が用いられることが多い。
キエフ・ルーシ、ウクライナ=ルーシ、キエフ・ロシア、ルーシ大公国、キエフ国家

建国期

ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』によれば、ノヴゴロドに拠って最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれる首長リューリクの子、イーゴリ1世を擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。
なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている。
建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ペルーンなどのスラヴ神話の神々を信仰していた。一方でソ連の学者M・チホミロフは、「ルーシ」という名前は9世紀から知られており、キエフを中心とした東スラヴ人ポリャーネ族の国の国号であったと論じており、それがヴァリャーグによって征服され大公国として成立したという説もある。

建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグ(キエフ大公)イーゴリ1世(キエフ大公)、そしてその寡婦オリガ(キエフ大公妃)は周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する東ローマ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラード(コンスタンティノープル)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていたビザンツに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第にビザンツの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至ってはビザンツ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。

英雄達の時代

スヴャトスラフの戦い

オリガの息子スヴャトスラフ1世(キエフ大公)の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。
965年にはハザールに大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。
さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退したが、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。
そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備したビザンツ艦隊に敗れ、遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年、ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。

聖公ウラジーミル

スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラディミル1世)となった。
ウラディミル1世(キエフ大公)はスウェーデンでヴァリャーグたちを従士団として雇用し、のちにヴァラング隊としてビザンツ帝国に贈った。
ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。
貴族の反乱に悩まされていたビザンツ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてアンナを妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。
これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。
それまでは北欧との関係も深く、ノルマン人の植民の奨励など親スカンディナヴィア政策を行っていたが、キリスト教(正教会)を国教としたことで東スラヴにおけるヴァリャーグ人の時代が終り、キリスト教の時代が始まったと言える。
なおこの時、ビザンツ帝国からキリスト教を導入した事により、キエフ府主教はコンスタンティノープル総主教の影響下に置かれることとなった。これは直接的にはウクライナ正教会の礎となり、ロシア正教会の母体ともなった。キリスト教(正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人で、亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。

ヤロスラフ賢公

1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制してボリスとグレブら弟達を殺害し、ボレスワフ1世(ポーランド王)を後盾として一時キエフ大公の座につくが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。
ヤロスラフ1世(キエフ大公)は当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。
またスウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年にはビザンツ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対ビザンツ遠征となった。
内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、「ヤロスラフ賢公」と呼ばれている。

衰退と国家の解体

ヤロスラフ1世(キエフ大公)は1054年に没した。死に際してヤロスラフは、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図ったが、かえって争いが頻発してしまった。また、ペチェネグ人に代わってポロヴェツ族(キプチャク)によって度々ルーシが攻撃された。こうしてキエフ大公の権威は低下し、諸公が自立傾向を強めることになった。
この傾向は1113年に大公となったウラジーミル2世モノマフとその子ムスチスラフ1世の時代にいったん食い止められる。ウラジーミル2世はポロヴェツとの戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。

しかし、1132年のムスチスラフの死後は再び諸公の争いが頻発し、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となって破壊されてしまった。十字軍遠征と、それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し、内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキエフの街とキエフ地方は荒廃。人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していった。
これによりルーシは完全に分裂し、北東ルーシのノヴゴロド公国ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する時代に入ることになる。
モンゴルのルーシ侵攻後期の1240年、モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。

Wikipediaより

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