カルロス4世(スペイン王)
カルロス4世(スペイン王)(フランシスコ・デ・ゴヤ画/プラド美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

カルロス4世(スペイン王)


カルロス3世(スペイン王)

フェルナンド7世(スペイン王)

カルロス4世(スペイン王) Carlos IV( A.D.1748〜A.D.1819)
スペイン王国スペイン・ブルボン朝第5代国王。(在位1788〜1808)。カルロス3世(スペイン王)の次男。政治は王妃と宰相に支配され、フランス革命ナポレオン戦争による混乱と敗北に終始した。1805年トラファルガーの海戦で全艦隊を失う。ナポレオン軍のイベリア半島侵入を許す密約で国民の怒りを買い、08年王子によるアランフエスの暴動で譲位。

カルロス4世(スペイン王)

スペイン王(在位1788~1808)。カルロス3世(スペイン王)の次男。パルマ公女マリア・ルイサと結婚。その政治は王妃と宰相M.ゴドイにより支配された。彼の治世はフランス革命とナポレオン戦争の影響のもとに、混乱と敗北に終始した。ナポレオン1世によって退位を余儀なくされ、1808年6月ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン国王となった。以後、フランス、次いでイタリアに亡命し、ローマで客死した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

子女

  • カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン(1775年4月25日 – 1830年1月7日) ジョアン6世(ポルトガル王)と結婚。
  • マリーア・アマリア(1779年1月9日 – 1798年7月27日) 叔父アントニオ・パスクアル・デ・ボルボンと結婚。
  • マリーア・ルイーザ・ディ・スパーニャ(1782年7月6日 – 1824年3月13日) ルドヴィーコ(エトルリア王)と結婚。
  • フェルナンド7世(1784年 – 1833年) フェルナンド7世(スペイン王)
  • カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン(1788年3月29日 – 1855年3月10日) モンテ・マリナ伯爵。カルリスタの王位僭称者。
  • マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ(1789年7月6日 – 1848年9月13日) 従兄のフランチェスコ1世(両シチリア王)、次いでバルソ伯爵フランチェスコと結婚。
  • フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボン(1794年3月10日 – 1865年8月13日) カディス公。姪ルイサ・カルロッタ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス(マリーア
  • イサベルと両シチリア王フランチェスコ1世の娘)と結婚。長男フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーンはイサベル2世(スペイン女王)と結婚。

スペインの宮廷画家・ゴヤ

カルロス4世の家族/フランシスコ・デ・ゴヤ画
カルロス4世の家族/フランシスコ・デ・ゴヤ画/プラド美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

「カルロス4世の家族」:画面左の影でこちらに顔を向けているのは、ゴヤ本人。ゴヤの工房へ訪れたような国王一家はみな、上等な衣装や宝飾品をこれみよがしに身に付けている。カルロス4世(スペイン王)は狩りにしか興味を示さず、代わりに王妃が愛人を首相にして国政を支配。その両親を軽蔑して育った皇太子は、国内に混乱を巻き起こし、後にスペイン史上最悪の王と呼ばれる(フェルナンド7世(スペイン王))。

フランシスコ・デ・ゴヤ
1808年5月3日(フランシスコ・デ・ゴヤ画/プラド美術館/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

「1808年5月3日」: フランス軍に対抗するマドリード市民の蜂起は1808年5月2日に始まるが、3日にはフランス軍による市民の処刑が始まった。フランシスコ・デ・ゴヤは、野蛮人にならないようにとの永遠の教訓を与えるために、「1808年5月3日」を描いたという。この絵の中央に位置する白いシャツの男性の掌には、キリストを思わせる聖痕(磔刑に際してつけられた傷)が描かれている。 参考:山川 詳説世界史図録

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