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カルボナリ
カルボナリの旗(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
カルボナリ Carbonari (1806頃〜1832頃) 19世紀前半のイタリアの秘密結社。はじめナポリ王国で結成され、ウィーン会議のころには北部にも広まり民主派組織と接触した。1820年代始めナポリ・ピエモンテで革命運動の中心となったが、オーストリア軍に弾圧され、その後、専制政治打倒と憲法制定を目的とした。21年の中部イタリア革命に失敗し勢力が衰え、運動の主導権を青年イタリアにゆずった。

カルボナリ

19世紀前半のイタリアの秘密結社。はじめナポリ王国で結成され、ウィーン会議のころには北部にも広まり民主派組織と接触した。1820年代始めナポリ・ピエモンテで革命運動の中心となったが、オーストリア軍に弾圧され、その後、専制政治打倒と憲法制定を目的とした。21年の中部イタリア革命に失敗し勢力が衰え、運動の主導権を青年イタリアにゆずった。

参考 世界史用語集

19世紀初期、イタリアとフランスに存在した政治的秘密結社。「炭焼き」という意味で、フランス語ではシャルボンヌリ Charbonnerie という。 1806年頃南イタリアで最初に結成された。フリーメーソンの組織形態を受継いで位階制の構造をもっており、通常は徒弟、親方、大親方の3位階に分れていた。位階ごとに異なった教義問答書があり、専制への批判と社会正義の要求を内容としていた。入社式あるいは下級位階から上級位階へ移る際の進級式には複雑な儀式が営まれ、結社員の間での秘密の維持が求められた。15年のウィーン体制の成立以後、カルボナリには自由主義的なブルジョアジー、軍人、官吏が結集するようになり、専制政府に反対する立憲自由主義運動としての性格をもつようになった。20年ナポリ革命を成功させて、カルボナリの革命政権を樹立したが、制定すべき憲法の内容をめぐって急進派と穏健派が対立、この間オーストリア軍の介入があって、21年に革命政権は崩壊した。しかし同じ21年にフランスにシャルボンヌリが結成されたため、この結社は国際的広がりをもつことになり、ウィーン体制に反対するヨーロッパ自由主義運動の中心組織となった。31年中部イタリアでカルボナリの手に成る革命が生じ、革命政権の樹立をみたが、これもオーストリア軍の介入により弾圧された。この革命の敗北でカルボナリの運動はほぼ終り、イタリアではこれに代って G.マッツィーニの「青年イタリア」が台頭してくることになる。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ウィーン体制の動揺
ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
イタリアでは、1820年から21年にかけて秘密結社のカルボナリ Carbonari が、ピエモンテやナポリにおいて革命運動をおこした(カルボナリの反乱)。
七月革命とその影響
イタリアでは、カルボナリが蜂起したが失敗し(カルボナリの反乱)、その党員であったマッツィーニ Mazzini (1805〜72)は亡命先であるマルセイユにおいて秘密結社から大衆政党へと脱皮すべく「青年イタリア」 Giovine Italia を結成した。

参考

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詳説日本史研究

主な党員

  • アントニオ・パニッツィ(Antonio Genesio Maria Panizzi:のちの大英博物館第6代館長)
  • フィリッポ・ブオナローティ(Filippo-Michele Buonarroti:革命家。バブーフの陰謀など、多くの革命・クーデター計画に加担)
  • ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini:革命家。離党後、青年イタリアを組織)
  • ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte:ナポレオン・ボナパルトの甥。のちのフランス皇帝ナポレオン3世)
  • ルイ・フィリップ(フランス王)(Louis Philippe:オルレアン公。のちのフランス王)
  • ピエトロ・マロンチェッリ(Pietro Maroncelli:愛国主義者。1820年、オーストリア軍により拘束、10年の幽囚を経て解放)
  • シルヴィオ・ペッリーコ(Silvio Pellico:詩人。マロンチェリと共に拘束、のち解放)

参考 Wikipedia

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